ると客は突然こんな話を私にして聞かせた。
「まだ使用人であった頃に、ある女と二年ばかり会っていた事があります。相手は無論|素人《しろうと》ではないのでした。しかしその女はもういないのです。首を縊《くく》って死んでしまったのです。年は十九でした。十日ばかり会わないでいるうちに死んでしまったのです。その女にはね、旦那《だんな》が二人あって、双方が意地ずくで、身受の金を競《せ》り上《あ》げにかかったのです。それに双方共老妓を味方にして、こっちへ来い、あっちへ行くなと義理責《ぎりぜめ》にもしたらしいのです。……」
「あなたはそれを救ってやる訳に行かなかったのですか」
「当時の私は丁稚《でっち》の少し毛の生《は》えたようなもので、とてもどうもできないのです」
「しかしその芸妓《げいしゃ》はあなたのために死んだのじゃありませんか」
「さあ……。一度に双方の旦那に義理を立てる訳に行かなかったからかも知れませんが。……しかし私ら二人の間に、どこへも行かないという約束はあったに違ないのです」
「するとあなたが間接にその女を殺した事になるのかも知れませんね」
「あるいはそうかも知れません」
「あなたは寝覚
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