り」に傍点]した顔をしているくらいだから。あなたの場合もそんな訳なんですか」
「そういう訳でもないようです。とにかく廿歳《はたち》少し過ぎまでは平気でいたのですから」
 その人はある意味において好男子であった。
「たといあなたが平気でいても、相手が平気でいない場合がないとも限らないじゃありませんか。そんな時には、どうしたって誘《さそ》われがちになるのが当り前でしょう」
「今からふり返って見ると、なるほどこういう意味でああいう事をしたのだとか、あんな事を云ったのだとか、いろいろ思い当る事がないでもありません」
「じゃ全く気がつかずにいたのですね」
「まあそうです。それからこちらで気のついたのも一つありました。しかし私の心はどうしても、その相手に惹《ひ》きつけられる事ができなかったのです」
 私はそれが話の終りかと思った。二人の前には正月の膳《ぜん》が据《す》えてあった。客は少しも酒を飲まないし、私もほとんど盃《さかずき》に手を触れなかったから、献酬《けんしゅう》というものは全くなかった。
「それだけで今日まで経過して来られたのですか」と私は吸物をすすりながら念のために訊《き》いて見た。す
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