ので、まだ生き残っているのかしらと思ったなり、私はそのまま通り過ぎてしまった。
 早稲田に移ってから、私はまたその門前を通って見た。表から覗《のぞ》くと、何だかもとと変らないような気もしたが、門には思いも寄らない下宿屋の看板が懸《かか》っていた。私は昔の早稲田|田圃《たんぼ》が見たかった。しかしそこはもう町になっていた。私は根来《ねごろ》の茶畠《ちゃばたけ》と竹藪《たけやぶ》を一目《ひとめ》眺めたかった。しかしその痕迹《こんせき》はどこにも発見する事ができなかった。多分この辺だろうと推測した私の見当《けんとう》は、当っているのか、外《はず》れているのか、それさえ不明であった。
 私は茫然《ぼうぜん》として佇立《ちょりつ》した。なぜ私の家だけが過去の残骸《ざんがい》のごとくに存在しているのだろう。私は心のうちで、早くそれが崩《くず》れてしまえば好いのにと思った。
「時」は力であった。去年私が高田の方へ散歩したついでに、何気なくそこを通り過ぎると、私の家は綺麗《きれい》に取り壊されて、そのあとに新らしい下宿屋が建てられつつあった。その傍《そば》には質屋もできていた。質屋の前に疎《まば》らな
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