》ではなかった。派出《はで》な付合《つきあい》をしなければならない名主《なぬし》という町人であった。私の知っている父は、禿頭《はげあたま》の爺《じい》さんであったが、若い時分には、一中節《いっちゅうぶし》を習ったり、馴染《なじみ》の女に縮緬《ちりめん》の積夜具《つみやぐ》をしてやったりしたのだそうである。青山に田地《でんち》があって、そこから上って来る米だけでも、家《うち》のものが食うには不足がなかったとか聞いた。現に今生き残っている三番目の兄などは、その米を舂《つ》く音を始終《しじゅう》聞いたと云っている。私の記憶によると、町内のものがみんなして私の家を呼んで、玄関《げんか》玄関と称《とな》えていた。その時分の私には、どういう意味か解らなかったが、今考えると、式台のついた厳《いか》めしい玄関付の家は、町内にたった一軒しかなかったからだろうと思う。その式台を上った所に、突棒《つくぼう》や、袖搦《そでがらみ》や刺股《さつまた》や、また古ぼけた馬上《ばじょう》提灯などが、並んで懸《か》けてあった昔なら、私でもまだ覚えている。

        二十二

 この二三年来私はたいてい年に一度く
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