ませんでした」
「もし内臓がそれほど具合よく調節されているなら、こんなに始終《しじゅう》病気などはしません」
「私は病気にはなりません」とその時女は突然自分の事を云った。
「それはあなたが私より偉い証拠《しょうこ》です」と私も答えた。
女は蒲団《ふとん》を滑《すべ》り下りた。そうして、「どうぞ御身体《おからだ》を御大切《ごたいせつ》に」と云って帰って行った。
十九
私の旧宅は今私の住んでいる所から、四五町奥の馬場下という町にあった。町とは云い条、その実《じつ》小さな宿場としか思われないくらい、小供の時の私には、寂《さび》れ切《き》ってかつ淋《さむ》しく見えた。もともと馬場下とは高田の馬場の下にあるという意味なのだから、江戸絵図で見ても、朱引内《しゅびきうち》か朱引外か分らない辺鄙《へんぴ》な隅《すみ》の方にあったに違ないのである。
それでも内蔵造《くらづくり》の家《うち》が狭い町内に三四軒はあったろう。坂を上《あが》ると、右側に見える近江屋伝兵衛《おうみやでんべえ》という薬種屋《やくしゅや》などはその一つであった。それから坂を下《お》り切《き》った所に、間口の
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