は一銭の小遣《こづかい》さえ無かった。
「僕は銭《ぜに》がないから厭《いや》だ」
「好いわ、私《わたし》が持ってるから」
 この女はその時眼を病んででもいたのだろう、こういいいい、綺麗《きれい》な襦袢《じゅばん》の袖《そで》でしきりに薄赤くなった二重瞼《ふたえまぶち》を擦《こす》っていた。
 その後《ご》私は「御作《おさく》が好い御客に引かされた」という噂《うわさ》を、従兄《いとこ》の家《うち》で聞いた。従兄の家では、この女の事を咲松《さきまつ》と云わないで、常に御作御作と呼んでいたのである。私はその話を聞いた時、心の内でもう御作に会う機会も来《こ》ないだろうと考えた。
 ところがそれからだいぶ経って、私が例の達人《たつじん》といっしょに、芝の山内《さんない》の勧工場《かんこうば》へ行ったら、そこでまたぱったり御作に出会った。こちらの書生姿に引《ひ》き易《か》えて、彼女はもう品《ひん》の好い奥様に変っていた。旦那というのも彼女の傍《そば》についていた。……
 私は床屋の亭主の口から出た東家《あずまや》という芸者屋の名前の奥に潜《ひそ》んでいるこれだけの古い事実を急に思い出したのである。
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