「あすこにいた御作という女を知ってるかね」と私は亭主に聞いた。
「知ってるどころか、ありゃ私の姪《めい》でさあ」
「そうかい」
 私は驚ろいた。
「それで、今どこにいるのかね」
「御作は亡《な》くなりましたよ、旦那」
 私はまた驚ろいた。
「いつ」
「いつって、もう昔の事になりますよ。たしかあれが二十三の年でしたろう」
「へええ」
「しかも浦塩《ウラジオ》で亡くなったんです。旦那が領事館に関係のある人だったもんですから、あっちへいっしょに行きましてね。それから間もなくでした、死んだのは」
 私は帰って硝子戸《ガラスど》の中に坐って、まだ死なずにいるものは、自分とあの床屋の亭主だけのような気がした。

        十八

 私の座敷へ通されたある若い女が、「どうも自分の周囲《まわり》がきちんと片づかないで困りますが、どうしたら宜《よろ》しいものでしょう」と聞いた。
 この女はある親戚の宅《うち》に寄寓《きぐう》しているので、そこが手狭《てぜま》な上に、子供などが蒼蠅《うるさ》いのだろうと思った私の答は、すこぶる簡単であった。
「どこかさっぱりした家《うち》を探して下宿でもしたら好い
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