ひと》にやろうとまで思ったのだから。――私の現下の経済的生活は、この十円のために、ほとんど目に立つほどの影響を蒙《こうむ》らないのだから」
「よく考えて見ましょう」といったK君はにやにや笑いながら帰って行った。
十六
宅《うち》の前のだらだら坂を下りると、一間ばかりの小川に渡した橋があって、その橋向うのすぐ左側に、小さな床屋が見える。私はたった一度そこで髪を刈《か》って貰った事がある。
平生は白い金巾《かなきん》の幕で、硝子戸《ガラスど》の奥が、往来から見えないようにしてあるので、私はその床屋の土間に立って、鏡の前に座を占めるまで、亭主の顔をまるで知らずにいた。
亭主は私の入ってくるのを見ると、手に持った新聞紙を放《ほう》り出《だ》してすぐ挨拶《あいさつ》をした。その時私はどうもどこかで会った事のある男に違ないという気がしてならなかった。それで彼が私の後《うしろ》へ廻って、鋏《はさみ》をちょきちょき鳴らし出した頃を見計らって、こっちから話を持ちかけて見た。すると私の推察通り、彼は昔《むか》し寺町の郵便局の傍《そば》に店を持って、今と同じように、散髪を渡世《とせ
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