ある。こんな男のために、品格にもせよ人格にもせよ、幾分の堕落を忍ばなければならないのかと考えると情《なさけ》なかったからである。
しかし坂越の男は平気であった。茶は飲んでしまい、短冊は失《な》くしてしまうとは、余りと申せば……とまた端書に書いて来た。そうしてその冒頭には依然として拝啓失敬申し候《そうら》えどもという文句が規則通り繰り返されていた。
その時私はもうこの男には取り合うまいと決心した。けれども私の決心は彼の態度に対して何の効果のあるはずはなかった。彼は相変らず催促をやめなかった。そうして今度は、もう一度書いてくれれば、また茶を送ってやるがどうだと云って来た。それから事いやしくも義士に関するのだから、句を作っても好いだろうと云って来た。
しばらく端書が中絶したと思うと、今度はそれが封書に変った。もっともその封筒は区役所などで使う極《きわ》めて安い鼠色《ねずみいろ》のものであったが、彼はわざとそれに切手を貼《は》らないのである。その代り裏に自分の姓名も書かずに投函《とうかん》していた。私はそれがために、倍の郵税を二度ほど払わせられた。最後に私は配達夫に彼の氏名と住所とを教え
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