しまった。するとほどなく坂越の男から、富士登山の画《え》を返してくれと云ってきた。彼からそんなものを貰った覚《おぼえ》のない私は、打《う》ちやっておいた。しかし彼は富士登山の画を返せ返せと三度も四度も催促してやまない。私はついにこの男の精神状態を疑い出した。「大方《おおかた》気違だろう。」私は心の中でこうきめたなり向うの催促にはいっさい取り合わない事にした。
 それから二三カ月|経《た》った。たしか夏の初の頃と記憶しているが、私はあまり乱雑に取り散らされた書斎の中に坐《すわ》っているのがうっとうしくなったので、一人でぽつぽつそこいらを片づけ始めた。その時書物の整理をするため、好い加減に積み重ねてある字引や参考書を、一冊ずつ改めて行くと、思いがけなく坂越の男が寄こした例の小包が出て来た。私は今まで忘れていたものを、眼《ま》のあたり見て驚ろいた。さっそく封を解《と》いて中を検《しら》べたら、小さく畳んだ画が一枚入っていた。それが富士登山の図だったので、私はまた吃驚《びっくり》した。
 包のなかにはこの画のほかに手紙が一通添えてあって、それに画の賛をしてくれという依頼と、御礼に茶を送るという
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