だんだん厭《いや》になって来た。
 もっとも私の時間に教師をしていた頃から見ると、多少の弾力性ができてきたには相違なかった。それでも自分の仕事にかかれば腹の中はずいぶん多忙であった。親切ずくで見てやろうと約束した原稿すら、なかなか埒《らち》のあかない場合もないとは限らなかった。
 私は私の頭で考えた通りの事をそのまま奥さんに話した。奥さんはよく私のいう意味を領解して帰って行った。約束の女が私の座敷へ来て、座蒲団《ざぶとん》の上に坐ったのはそれから間もなくであった。佗《わ》びしい雨が今にも降り出しそうな暗い空を、硝子戸越《ガラスどごし》に眺めながら、私は女にこんな話をした。――
「これは社交ではありません。御互に体裁《ていさい》の好い事ばかり云い合っていては、いつまで経《た》ったって、啓発されるはずも、利益を受ける訳もないのです。あなたは思い切って正直にならなければ駄目《だめ》ですよ。自分さえ充分に開放して見せれば、今あなたがどこに立ってどっちを向いているかという実際が、私によく見えて来るのです。そうした時、私は始めてあなたを指導する資格を、あなたから与えられたものと自覚しても宜《よろ》
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