《おも》い出すたびに、達人《たつじん》という彼の名を考える。するとその名がとくに彼のために天から与えられたような心持になる。そうしてその達人が雪と氷に鎖《と》ざされた北の果《はて》に、まだ中学校長をしているのだなと思う。

        十一

 ある奥さんがある女の人を私に紹介した。
「何か書いたものを見ていただきたいのだそうでございます」
 私は奥さんのこの言葉から、頭の中でいろいろの事を考えさせられた。今《いま》まで私の所へ自分の書いたものを読んでくれと云って来たものは何人となくある。その中には原稿紙の厚さで、一寸または二寸ぐらいの嵩《かさ》になる大部のものも交っていた。それを私は時間の都合の許す限りなるべく読んだ。そうして簡単な私はただ読みさえすれば自分の頼まれた義務を果《はた》したものと心得て満足していた。ところが先方では後から新聞に出してくれと云ったり、雑誌へ載せて貰《もら》いたいと頼んだりするのが常であった。中には他《ひと》に読ませるのは手段で、原稿を金に換えるのが本来の目的であるように思われるのも少なくはなかった。私は知らない人の書いた読みにくい原稿を好意的に読むのが
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