女を死以上に苦しめる手傷《てきず》そのものであった。二つの物は紙の裏表のごとくとうてい引き離せないのである。
私は彼女に向って、すべてを癒《いや》す「時」の流れに従って下《くだ》れと云った。彼女はもしそうしたらこの大切な記憶がしだいに剥《は》げて行くだろうと嘆いた。
公平な「時」は大事な宝物《たからもの》を彼女の手から奪う代りに、その傷口もしだいに療治してくれるのである。烈《はげ》しい生の歓喜を夢のように暈《ぼか》してしまうと同時に、今の歓喜に伴なう生々《なまなま》しい苦痛も取《と》り除《の》ける手段を怠《おこ》たらないのである。
私は深い恋愛に根ざしている熱烈な記憶を取り上げても、彼女の創口《きずぐち》から滴《したた》る血潮を「時」に拭《ぬぐ》わしめようとした。いくら平凡でも生きて行く方が死ぬよりも私から見た彼女には適当だったからである。
かくして常に生よりも死を尊《たっと》いと信じている私の希望と助言は、ついにこの不愉快に充《み》ちた生というものを超越する事ができなかった。しかも私にはそれが実行上における自分を、凡庸《ぼんよう》な自然主義者として証拠《しょうこ》立てたように
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