や帝劇へ行って得意になっていた自分の過去の影法師が何となく浅ましく感ぜられた。

        八

 不愉快に充《み》ちた人生をとぼとぼ辿《たど》りつつある私は、自分のいつか一度到着しなければならない死という境地について常に考えている。そうしてその死というものを生よりは楽なものだとばかり信じている。ある時はそれを人間として達し得る最上至高の状態だと思う事もある。
「死は生よりも尊《たっ》とい」
 こういう言葉が近頃では絶えず私の胸を往来《おうらい》するようになった。
 しかし現在の私は今まのあたりに生きている。私の父母《ふぼ》、私の祖父母《そふぼ》、私の曾祖父母《そうそふぼ》、それから順次に溯《さかの》ぼって、百年、二百年、乃至《ないし》千年万年の間に馴致《じゅんち》された習慣を、私一代で解脱《げだつ》する事ができないので、私は依然としてこの生に執着しているのである。
 だから私の他《ひと》に与える助言《じょごん》はどうしてもこの生の許す範囲内においてしなければすまないように思う。どういう風に生きて行くかという狭い区域のなかでばかり、私は人類の一人《いちにん》として他の人類の一人に
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