、女と共に沓脱《くつぬぎ》に下りた。
 その時美くしい月が静かな夜《よ》を残る隈《くま》なく照らしていた。往来へ出ると、ひっそりした土の上にひびく下駄《げた》の音はまるで聞こえなかった。私は懐手《ふところで》をしたまま帽子も被《かぶ》らずに、女の後《あと》に跟《つ》いて行った。曲り角の所で女はちょっと会釈《えしゃく》して、「先生に送っていただいてはもったいのうございます」と云った。「もったいない訳がありません。同じ人間です」と私は答えた。
 次の曲り角へ来たとき女は「先生に送っていただくのは光栄でございます」とまた云った。私は「本当に光栄と思いますか」と真面目《まじめ》に尋ねた。女は簡単に「思います」とはっきり答えた。私は「そんなら死なずに生きていらっしゃい」と云った。私は女がこの言葉をどう解釈したか知らない。私はそれから一丁ばかり行って、また宅《うち》の方へ引き返したのである。
 むせっぽいような苦しい話を聞かされた私は、その夜かえって人間らしい好い心持を久しぶりに経験した。そうしてそれが尊《たっ》とい文芸上の作物《さくぶつ》を読んだあとの気分と同じものだという事に気がついた。有楽座
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