来るかも知れません」
「先生はどちらを御択《おえら》びになりますか」
 私はまた躊躇《ちゅうちょ》した。黙って女のいう事を聞いているよりほかに仕方がなかった。
「私は今持っているこの美しい心持が、時間というもののためにだんだん薄れて行くのが怖《こわ》くってたまらないのです。この記憶が消えてしまって、ただ漫然と魂の抜殻《ぬけがら》のように生きている未来を想像すると、それが苦痛で苦痛で恐ろしくってたまらないのです」
 私は女が今広い世間《せかい》の中にたった一人立って、一寸《いっすん》も身動きのできない位置にいる事を知っていた。そうしてそれが私の力でどうする訳にも行かないほどに、せっぱつまった境遇である事も知っていた。私は手のつけようのない人の苦痛を傍観する位置に立たせられてじっとしていた。
 私は服薬の時間を計るため、客の前も憚《はば》からず常に袂時計《たもとどけい》を座蒲団《ざぶとん》の傍《わき》に置く癖《くせ》をもっていた。
「もう十一時だから御帰りなさい」と私はしまいに女に云った。女は厭《いや》な顔もせずに立ち上った。私はまた「夜が更《ふ》けたから送って行って上げましょう」と云って
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