の書斎に坐《すわ》ったのはその次の日の晩であった。彼女は自分の前に置かれた桐《きり》の手焙《てあぶり》の灰を、真鍮《しんちゅう》の火箸《ひばし》で突ッつきながら、悲しい身の上話を始める前、黙っている私にこう云った。
「この間は昂奮《こうふん》して私の事を書いていただきたいように申し上げましたが、それは止《や》めに致します。ただ先生に聞いていただくだけにしておきますから、どうかそのおつもりで……」
私はそれに対してこう答えた。
「あなたの許諾を得ない以上は、たといどんなに書きたい事柄《ことがら》が出て来てもけっして書く気遣《きづかい》はありませんから御安心なさい」
私が充分な保証を女に与えたので、女はそれではと云って、彼女の七八年前からの経歴を話し始めた。私は黙然《もくねん》として女の顔を見守っていた。しかし女は多く眼を伏せて火鉢《ひばち》の中ばかり眺めていた。そうして綺麗《きれい》な指で、真鍮の火箸を握っては、灰の中へ突き刺した。
時々|腑《ふ》に落ちないところが出てくると、私は女に向って短かい質問をかけた。女は単簡《たんかん》にまた私の納得《なっとく》できるように答をした。しか
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