ました」
「それを聞いてやっと安心しました。妾《わたくし》のようなものは、どうせ旦那《だんな》がなくっちゃ生きて行かれないから、仕方がありませんけれども、……」
 兄の遺骨の埋《う》められた寺の名を教《おす》わって帰って行ったこの女は、わざわざ甲州から出て来たのであるが、元柳橋の芸者をしている頃、兄と関係があったのだという話を、私はその時始めて聞いた。
 私は時々この女に会って兄の事などを物語って見たい気がしないでもない。しかし会ったら定めし御婆《おばあ》さんになって、昔とはまるで違った顔をしていはしまいかと考える。そうしてその心もその顔同様に皺《しわ》が寄って、からからに乾いていはしまいかとも考える。もしそうだとすると、彼女《かのおんな》が今になって兄の弟の私に会うのは、彼女にとってかえって辛《つら》い悲しい事かも知れない。

        三十七

 私は母の記念のためにここで何か書いておきたいと思うが、あいにく私の知っている母は、私の頭に大した材料を遺《のこ》して行ってくれなかった。
 母の名は千枝《ちえ》といった。私は今でもこの千枝という言葉を懐《なつ》かしいものの一つに数え
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