彼の顔も咽喉《のど》も昔とちっとも変っていないのに驚ろいた。彼の講釈も全く昔の通りであった。進歩もしない代りに、退歩もしていなかった。廿世紀のこの急劇な変化を、自分と自分の周囲に恐ろしく意識しつつあった私は、彼の前に坐りながら、絶えず彼と私とを、心のうちで比較して一種の黙想に耽《ふけ》っていた。
彼というのは馬琴《ばきん》の事で、昔|伊勢本《いせもと》で南竜の中入前をつとめていた頃には、琴凌《きんりょう》と呼ばれた若手だったのである。
三十六
私の長兄はまだ大学とならない前の開成校《かいせいこう》にいたのだが、肺を患《わずら》って中途で退学してしまった。私とはだいぶ年歯《とし》が違うので、兄弟としての親しみよりも、大人《おとな》対小供としての関係の方が、深く私の頭に浸《し》み込《こ》んでいる。ことに怒《おこ》られた時はそうした感じが強く私を刺戟《しげき》したように思う。
兄は色の白い鼻筋の通った美くしい男であった。しかし顔だちから云っても、表情から見ても、どこかに峻《けわ》しい相《そう》を具えていて、むやみに近寄れないと云った風の逼《せま》った心持を他《ひと》
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