と考えついたので、それを宅《うち》から取り寄せてとうとう力学的《ダイナミック》に社会学《ソシオロジー》を病院で研究する事にした。
 ところが読み出して見ると、恐ろしく玄関の広い前置の長い本であった。そうして肝心《かんじん》の社会学そのものになるとすこぶる不完全で、かつせっかくの頼みと思っているいわゆる力学的がはなはだ心細くなるほどに手荒に取扱われていた。今更ウォードの著述に批評を下《くだ》すのは余の目的でない、ただついでに云うだけではあるが、今に本当の力学的が出るだろう、今に高潮の力学的が出るだろうと、どこまでも著者を信用して、とうとう千五百頁の最後の一頁の最後の文字まで読み抜けて、そうして期待したほどのものがどこからも出て来なかった時には、ちょうどハレー彗星《すいせい》の尾で地球が包まれべき当日を、何の変化もなく無事に経過したほどあっけない心持がした。
 けれども道中は、道草を食うべく余儀なくされるだけそれだけ多趣多様で面白かった。その中《うち》で宇宙創造論《コスモジェニー》と云う厳《いか》めしい標題を掲げた所へ来た時、余は覚えず昔《むか》し学校で先生から教わった星雲説《せいうんせつ》の記憶を呼び起して微笑せざるを得なかった。そうしてふと考えた。――
 自分は今危険な病気からやっと回復しかけて、それを非常な仕合《しあわせ》のように喜んでいる。そうして自分の癒《なお》りつつある間に、容赦なく死んで行く知名の人々や惜しい人々を今少し生かしておきたいとのみ冀《こいねが》っている。自分の介抱《かいほう》を受けた妻や医者や看護婦や若い人達をありがたく思っている。世話をしてくれた朋友《ほうゆう》やら、見舞に来てくれた誰彼《たれかれ》やらには篤《あつ》い感謝の念を抱いている。そうしてここに人間らしいあるものが潜《ひそ》んでいると信じている。その証拠《しょうこ》にはここに始めて生き甲斐《がい》のあると思われるほど深い強い快よい感じが漲《みなぎ》っているからである。
 しかしこれは人間相互の関係である。よし吾々《われわれ》を宇宙の本位と見ないまでも、現在の吾々以外に頭を出して、世界のぐるりを見回さない時の内輪の沙汰《さた》である。三世《さんぜ》に亘《わた》る生物全体の進化論と、(ことに)物理の原則に因《よ》って無慈悲に運行し情義なく発展する太陽系の歴史を基礎として、その間に微《かす》かな生を営む人間を考えて見ると、吾らごときものの一喜一憂は無意味と云わんほどに勢力のないという事実に気がつかずにはいられない。
 限りなき星霜《せいそう》を経て固《かた》まりかかった地球の皮が熱を得て溶解し、なお膨脹《ぼうちょう》して瓦斯《ガス》に変形すると同時に、他の天体もまたこれに等しき革命を受けて、今日《こんにち》まで分離して運行した軌道と軌道の間が隙間《すきま》なく充《み》たされた時、今の秩序ある太陽系は日月星辰《じつげつせいしん》の区別を失って、爛《らん》たる一大火雲のごとくに盤旋《ばんせん》するだろう。さらに想像を逆《さか》さまにして、この星雲が熱を失って収縮し、収縮すると共に回転し、回転しながらに外部の一片《いっぺん》を振りちぎりつつ進行するさまを思うと、海陸空気歴然と整えるわが地球の昔は、すべてこれ※[#「(諂−言)+炎」、第3水準1−87−64]々《えんえん》たる一塊《いっかい》の瓦斯に過ぎないという結論になる。面目の髣髴《ほうふつ》たる今日から溯《さかのぼ》って、科学の法則を、想像だも及ばざる昔に引張《ひっぱ》れば、一糸《いっし》も乱れぬ普遍の理で、山は山となり、水は水となったものには違かなろうが、この山とこの水とこの空気と太陽の御蔭《おかげ》によって生息する吾《われ》ら人間の運命は、吾らが生くべき条件の備わる間の一瞬時――永劫《えいごう》に展開すべき宇宙歴史の長きより見たる一瞬時――を貪《むさ》ぼるに過ぎないのだから、はかないと云わんよりも、ほんの偶然の命と評した方が当っているかも知れない。
 平生の吾らはただ人を相手にのみ生きている。その生きるための空気については、あるのが当然だと思っていまだかつて心遣《こころづかい》さえした事がない。その心根《こころね》を糺《ただ》すと、吾らが生れる以上、空気は無ければならないはずだぐらいに観じているらしい。けれども、この空気があればこそ人間が生れるのだから、実を云えば、人間のためにできた空気ではなくて、空気のためにできた人間なのである。今にもあれこの空気の成分に多少の変化が起るならば、――地球の歴史はすでにこの変化を予想しつつある――活溌《かっぱつ》なる酸素が地上の固形物と抱合《ほうごう》してしだいに減却するならば、炭素が植物に吸収せられて黒い石炭層に運び去らるるならば、月球《げっきゅう》の表面に瓦斯《ガス》のかからぬごとくに、吾らの世界もまた冷却し尽くすならば、吾らはことごとく死んでしまわねばならない。今の余のように生き延びた自分を祝い、遠く逝《ゆ》く他人を悲しみ、友を懐《なつか》しみ敵を悪《にく》んで、内輪だけの活計《かっけい》に甘んじて得意にその日を渡る訳には行くまい。
 進んで無機有機を通じ、動植両界を貫《つらぬ》き、それらを万里一条の鉄のごとくに隙間《すきま》なく発展して来た進化の歴史と見傚《みな》すとき、そうして吾ら人類がこの大歴史中の単なる一|頁《ページ》を埋《うず》むべき材料に過ぎぬ事を自覚するとき、百尺竿頭《ひゃくせきかんとう》に上《のぼ》りつめたと自任する人間の自惚《うぬぼれ》はまた急に脱落しなければならない。支那人が世界の地図を開いて、自分のいる所だけが中華でないと云う事を発見した時よりも、無気味な黒船が来て日本だけが神国でないという事を覚った時よりも、さらに溯《さかのぼ》っては天動説が打ち壊されて、地球が宇宙の中心でなかった事を無理に合点《がてん》せしめられた時よりも、進化論を知り、星雲説を想像する現代の吾らは辛《から》きジスイリュージョンを甞《な》めている。
 種類保存のためには個々の滅亡を意とせぬのが進化論の原則である。学者の例証するところによると、一|疋《ぴき》の大口魚《たら》が毎年生む子の数は百万疋とか聞く。牡蠣《かき》になるとそれが二百万の倍数に上《のぼ》るという。そのうちで生長するのはわずか数匹《すひき》に過ぎないのだから、自然は経済的に非常な濫費者《らんぴしゃ》であり、徳義上には恐るべく残酷な父母《ふぼ》である。人間の生死も人間を本位とする吾らから云えば大事件に相違ないが、しばらく立場を易《か》えて、自己が自然になり済ました気分で観察したら、ただ至当《しとう》の成行で、そこに喜びそこに悲しむ理窟《りくつ》は毫《ごう》も存在していないだろう。
 こう考えた時、余ははなはだ心細くなった。またはなはだつまらなくなった。そこでことさらに気分を易えて、この間|大磯《おおいそ》で亡《な》くなった大塚夫人の事を思い出しながら、夫人のために手向《たむけ》の句を作った。
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有る程の菊|抛《な》げ入れよ棺《かん》の中
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        八

 忘るべからざる八月二十四日の来《きた》る二週間ほど前から余はすでに病んでいた。縁側《えんがわ》を絶えず通る湯治客に、吾姿を見せるのが苦《く》になって、蒸《む》し暑い時ですら障子《しょうじ》は常に閉《た》て切っていた。三度三度|献立《こんだて》を持って誂《あつらえ》を聞きにくる婆さんに、二品《ふたしな》三品《みしな》口に合いそうなものを注文はしても、膳《ぜん》の上に揃《そろ》った皿を眺めると共に、どこからともなく反感が起って、箸《はし》を執《と》る気にはまるでなれなかった。そのうちに嘔気《はきけ》が来た。
 始めは煎薬《せんやく》に似た黄黒《きぐろ》い水をしたたかに吐いた。吐いた後《あと》は多少気分が癒《なお》るので、いささかの物は咽喉《のど》を越した。しかし越した嬉《うれ》しさがまだ消えないうちに、またそのいささかの胃の滞《とどこ》うる重き苦しみに堪《た》え切れなくなって来た。そうしてまた吐いた。吐くものは大概水である。その色がだんだん変って、しまいには緑青《ろくしょう》のような美くしい液体になった。しかも一粒《いちりゅう》の飯さえあえて胃に送り得ぬ恐怖と用心の下《もと》に、卒然として容赦なく食道を逆《さか》さまに流れ出た。
 青いものがまた色を変えた。始めて熊《くま》の胆《い》を水に溶き込んだように黒ずんだ濃い汁を、金盥《かなだらい》になみなみと反《もど》した時、医者は眉《まゆ》を寄せて、こういうものが出るようでは、今のうち安静にして東京に帰った方が好かろうと注告した。余は金盥の中を指《ゆびさ》していったい何が出るのかと質問した。医者は興《きょう》のない顔つきで、これは血だと答えた。けれども余の眼にはこの黒いものが血とは思えなかった。するとまた吐いた。その時は熊の胆の色が少し紅《くれない》を含んで、咽喉を出る時|腥《なまぐさ》い臭《かおり》がぷんと鼻を衝《つ》いたので、余は胸を抑えながら自分で血だ血だと云った。玄耳君《げんじくん》が驚ろいて森成《もりなり》さんに坂元《さかもと》君を添えてわざわざ修善寺《しゅぜんじ》まで寄こしてくれたのは、この報知が長距離電話で胃腸病院へ伝《つたわ》って、そこからまた直《すぐ》に社へ通じたからである。別館から馳《か》けて来た東洋城《とうようじょう》が枕辺《まくらべ》に立って、今日東京から医者と社員が来るはずになったと知らしてくれた時は全く救われたような気がした。
 この時の余はほとんど人間らしい複雑な命を有して生きてはいなかった。苦痛のほかは何事をも容《い》れ得《え》ぬほどに烈《はげ》しく活動する胸を懐《いだ》いて朝夕《あさゆう》悩んでいたのである。四十年来の経験を刻んでなお余りあると見えた余の頭脳は、ただこの截然《せつぜん》たる一苦痛を秒ごとに深く印《いん》し来《く》るばかりを能事とするように思われた。したがって余の意識の内容はただ一色《ひといろ》の悶《もだえ》に塗抹《とまつ》されて、臍上方《さいじょうほう》三寸《さんずん》の辺《あたり》を日夜にうねうね行きつ戻りつするのみであった。余は明け暮れ自分の身体《からだ》の中《うち》で、この部分だけを早く切り取って犬に投げてやりたい気がした。それでなければこの恐ろしい単調な意識を、一刻も早くどこへか打ちやってしまいたい気がした。またできるならば、このまま睡魔に冒《おか》されて、前後も知らず一週間ほど寝込んで、しかる後|鷹揚《おうよう》な心持をゆたかに抱いて、爽《さわや》かな秋の日の光りに、両の眼を颯《さっ》と開《あ》けたかった。少くとも汽車に揺られもせず車に乗せられもせず、すうと東京へ帰って、胃腸病院の一室に這入《はい》って、そこに仰向《あおむ》けに倒れていたかった。
 森成さんが来てもこの苦しみはちょっと除《と》れなかった。胸の中を棒で攪《か》き混《ま》ぜられるような、また胃の腑《ふ》が不規則な大波をその全面に向って層々と描き出すような、異《い》な心持に堪《た》えかねて、床《とこ》の上に起き返りながら、吐いて見ましょうかと云って、腥《なまぐさ》いものを面《ま》のあたり咽喉《のど》の奥から金盥《かなだらい》の中に傾けた事もあった。森成さんの御蔭《おかげ》でこの苦しみがだいぶ退《ひ》いた時ですら、動くたびに腥い噫《おくび》は常に鼻を貫《つら》ぬいた。血は絶えず腸に向って流れていたのである。
 この煩悶《はんもん》に比《くら》べると、忘るべからざる二十四日の出来事以後に生きた余は、いかに安住の地を得て静穏に生を営んだか分らない。その静穏の日がすなわち余の一生涯《いっしょうがい》にあって最も恐るべき危険の日であったのだと云う事を後から知った時、余は下《しも》のような詩を作った。
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円覚曾参棒喝禅[#「円覚曾参棒喝禅」に白丸傍点]。 瞎児何処触機縁[#「瞎児何処触機縁」に白丸傍点]。
青山
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