を逃れたわが心が、本来の自由に跳《は》ね返って、むっちりとした余裕を得た時、油然《ゆうぜん》と漲《みな》ぎり浮かんだ天来《てんらい》の彩紋《さいもん》である。吾ともなく興の起るのがすでに嬉《うれ》しい、その興を捉《とら》えて横に咬《か》み竪《たて》に砕《くだ》いて、これを句なり詩なりに仕立上げる順序過程がまた嬉しい。ようやく成った暁には、形のない趣《おもむき》を判然《はっきり》と眼の前に創造したような心持がしてさらに嬉しい。はたしてわが趣とわが形に真の価値があるかないかは顧みる遑《いとま》さえない。
 病中は知ると知らざるとを通じて四方の同情者から懇切な見舞《みまい》を受けた。衰弱の今の身ではその一々に一々の好意に背《そむ》かないほどに詳《くわ》しい礼状を出して、自分がつい死にもせず今日《こんにち》に至った経過を報ずる訳にも行かない。「思い出す事など」を牀上《しょうじょう》に書き始めたのは、これがためである。――各々《めいめい》に向けて云い送るべきはずのところを、略して文芸欄《ぶんげいらん》の一隅にのみ載せて、余のごときもののために時と心を使われたありがたい人々にわが近況を知らせるためである。
 したがって「思い出す事など」の中に詩や俳句を挟《はさ》むのは、単に詩人俳人としての余の立場を見て貰うつもりではない。実を云うとその善悪などはむしろどうでも好《い》いとまで思っている。ただ当時の余はかくのごとき情調に支配されて生きていたという消息が、一瞥《いちべつ》の迅《と》きうちに、読者の胸に伝われば満足なのである。
  秋の江《え》に打ち込む杭《くい》の響かな
 これは生き返ってから約十日ばかりしてふとできた句である。澄み渡る秋の空、広き江、遠くよりする杭の響、この三つの事相《じそう》に相応したような情調が当時絶えずわが微《かす》かなる頭の中を徂徠《そらい》した事はいまだに覚えている。
  秋の空|浅黄《あさぎ》に澄めり杉に斧《おの》
 これも同じ心の耽《ふけ》りを他《ほか》の言葉で云い現したものである。
  別るるや夢一筋《ゆめひとすじ》の天の川
 何という意味かその時も知らず、今でも分らないが、あるいは仄《ほのか》に東洋城《とうようじょう》と別れる折の連想が夢のような頭の中に這回《はいまわ》って、恍惚《こうこつ》とでき上ったものではないかと思う。
 当時の余は西洋の語にほとんど見当らぬ風流と云う趣をのみ愛していた。その風流のうちでもここに挙《あ》げた句に現れるような一種の趣だけをとくに愛していた。
  秋風や唐紅《からくれない》の咽喉仏《のどぼとけ》
という句はむしろ実況であるが、何だか殺気があって含蓄《がんちく》が足りなくて、口に浮かんだ時からすでに変な心持がした。
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風流人未死[#「風流人未死」に白丸傍点]。 病裡領清閑[#「病裡領清閑」に白丸傍点]。
日々山中事[#「日々山中事」に白丸傍点]。 朝々見碧山[#「朝々見碧山」に白丸傍点]。
[#ここで字下げ終わり]
 詩《し》に圏点《けんてん》のないのは障子《しょうじ》に紙が貼《は》ってないような淋《さび》しい感じがするので、自分で丸を付けた。余のごとき平仄《ひょうそく》もよく弁《わきま》えず、韻脚《いんきゃく》もうろ覚えにしか覚えていないものが何を苦しんで、支那人にだけしか利目《ききめ》のない工夫《くふう》をあえてしたかと云うと、実は自分にも分らない。けれども(平仄|韻字《いんじ》はさておいて)、詩の趣《おもむき》は王朝以後の伝習で久しく日本化されて今日《こんにち》に至ったものだから、吾々くらいの年輩の日本人の頭からは、容易にこれを奪い去る事ができない。余は平生事に追われて簡易な俳句すら作らない。詩となると億劫《おっくう》でなお手を下《くだ》さない。ただ斯様《かよう》に現実界を遠くに見て、杳《はるか》な心にすこしの蟠《わだかま》りのないときだけ、句も自然と湧《わ》き、詩も興に乗じて種々な形のもとに浮んでくる。そうして後《あと》から顧みると、それが自分の生涯《しょうがい》の中《うち》で一番幸福な時期なのである。風流を盛るべき器《うつわ》が、無作法《ぶさほう》な十七字と、佶屈《きっくつ》な漢字以外に日本で発明されたらいざ知らず、さもなければ、余はかかる時、かかる場合に臨んで、いつでもその無作法とその佶屈とを忍んで、風流を這裏《しゃり》に楽しんで悔いざるものである。そうして日本に他の恰好《かっこう》な詩形のないのを憾《うら》みとはけっして思わないものである。

        六

 始めて読書欲の萌《きざ》した頃、東京の玄耳君《げんじくん》から小包で酔古堂剣掃《すいこどうけんそう》と列仙伝《れつせんでん》を送ってくれた。この列仙伝は帙入《ちついり》の唐本《とうほん》で、少し手荒に取扱うと紙がぴりぴり破れそうに見えるほどの古い――古いと云うよりもむしろ汚ない――本であった。余は寝ながらこの汚ない本を取り上げて、その中にある仙人の挿画《さしえ》を一々|丁寧《ていねい》に見た。そうしてこれら仙人の髯《ひげ》の模様だの、頭の恰好《かっこう》だのを互に比較して楽んだ。その時は画工《えかき》の筆癖から来る特色を忘れて、こう云う頭の平らな男でなければ仙人になる資格がないのだろうと思ったり、またこう云う疎《まばら》な髯を風に吹かせなければ仙人の群《むれ》に入《い》る事は覚束《おぼつか》ないのだろうと思ったりして、ひたすら彼等の容貌《ようぼう》に表われてくる共通な骨相を飽《あ》かず眺めた。本文も無論読んで見た。平生気の短かい時にはとても見出す事のできない悠長《ゆうちょう》な心をめでたく意識しながら読んで見た。――余は今の青年のうちに列仙伝を一枚でも読む勇気と時間をもっているものは一人もあるまいと思う。年を取った余も実を云うとこの時始めて列仙伝と云う書物を開けたのである。
 けれども惜しい事に本文は挿画ほど雅《が》に行かなかった。中には欲の塊《かたまり》が羽化《うか》したような俗な仙人もあった。それでも読んで行くうちには多少気に入ったのもできてきた。一番|無雑作《むぞうさ》でかつおかしいと思ったのは、何ぞと云うと、手の垢《あか》や鼻糞《はなくそ》を丸めて丸薬《がんやく》を作って、それを人にやる道楽のある仙人であったが、今ではその名を忘れてしまった。
 しかし挿画《さしえ》よりも本文よりも余の注意を惹《ひ》いたのは巻末にある附録であった。これは手軽にいうと長寿法《ちょうじゅほう》とか養生訓《ようじょうくん》とか称するものを諸方から取り集めて来て、いっしょに並べたもののように思われた。もっとも仙に化するための注意であるから、普通の深呼吸だの冷水浴だのとは違って、すこぶる抽象的で、実際解るとも解らぬとも片のつかぬ文字であるが、病中の余にはそれが面白かったと見えて、その二三節をわざわざ日記の中に書き抜いている。日記を検《しら》べて見ると「静《せい》これを性《せい》となせば心|其中《そのうち》にあり、動《どう》これを心となせば性其中にあり、心|生《しょう》ずれば性|滅《めっ》し、心滅すれば性生ず」というようなむずかしい漢文が曲がりくねりに半頁《はんページ》ばかりを埋《うず》めている。
 その時の余は印気《インキ》の切れた万年筆《まんねんふで》の端を撮《つま》んで、ペン先へ墨の通うように一二度|揮《ふ》るのがすこぶる苦痛であった。実際健康な人が片手で樫《かし》の六尺棒を振り廻すよりも辛《つら》いくらいであった。それほど衰弱の劇《はげ》しい時にですら、わざわざとこんな道経《どうきょう》めいた文句を写す余裕が心にあったのは、今から考えても真《まこと》に愉快である。子供の時|聖堂《せいどう》の図書館へ通って、徂徠《そらい》の※[#「くさかんむり/(言+爰)」、第3水準1−91−40]園十筆《けんえんじっぴつ》をむやみに写し取った昔を、生涯《しょうがい》にただ一度繰り返し得たような心持が起って来る。昔の余の所作《しょさ》が単に写すという以外には全く無意味であったごとく、病後の余の所作もまたほとんど同様に無意味である。そうしてその無意味なところに、余は一種の価値を見出して喜んでいる。長生《ながいき》の工夫《くふう》のための列仙伝が、長生もしかねまじきほど悠長《ゆうちょう》な心の下《もと》に、病後の余からかく気楽に取扱われたのは、余に取って全くの偶然であり、また再び来《きた》るまじき奇縁である。
 仏蘭西《フランス》の老画家アルピニーはもう九十一二の高齢である。それでも人並《ひとなみ》の気力はあると見えて、この間のスチュージオには目醒《めざま》しい木炭画が十種ほど載っていた。国朝六家詩鈔《こくちょうりくかししょう》の初にある沈徳潜《しんとくせん》の序には、乾隆丁亥夏五《けんりゅうていがいかご》長洲《ちょうしゅう》沈徳潜《しんとくせん》書《しょ》す時に年九十有五。とわざわざ断ってある。長生《ながいき》の結構な事は云うまでもない。長生をしてこの二人のように頭がたしかに使えるのはなおさらめでたい。不惑《ふわく》の齢《よわい》を越すと間もなく死のうとして、わずかに助かった余は、これからいつまで生きられるか固《もと》より分らない。思うに一日生きれば一日の結構で、二日生きれば二日の結構であろう。その上頭が使えたらなおありがたいと云わなければなるまい。ハイズンは世間から二|返《へん》も死んだと評判された。一度は弔詩《ちょうし》まで作ってもらった。それにもかかわらず彼は依然として生きていた。余も当時はある新聞から死んだと書かれたそうである。それでも実は死なずにいた。そうして列仙伝を読んで子供の時の無邪気な努力を繰り返し得るほどに生き延びた。それだけでも弱い余に取っては非常な幸福である。その頃ある知らない人から、先生死にたもう事なかれ、先生死にたもうことなかれと書いた見舞を受けた。余は列仙伝を読むべく生き延びた余を悦《よろこ》ぶと同時に、この同情ある青年のために生き延びた余を悦んだ。

        七

 ウォードの著わした社会学の標題には力学的《ダイナミック》という形容詞をわざわざ冠《かん》してあるが、これは普通の社会学でない、力学的に論じたのだという事を特に断ったものと思われる。ところがこの本のかつて魯西亜語《ロシアご》に翻訳された時、魯国《ろこく》の当局者は直《ただ》ちにその発売を禁止してしまった。著者は不審の念に打たれて、その理由を在魯《ざいろ》の友人に聞き合せた。すると友人から、自分にもよくは分らぬが、おそらく標題に力学的という字と社会学《ソシオロジー》という字があるので、当局者は一も二もなくダイナマイト及び社会主義に関係のある恐ろしい著述と速断して、この暴挙をあえてしたのだろうという返事が来たそうである。
 魯国の当局者ではないが、余もこの力学的という言葉には少からぬ注意を払った一人である。平生から一般の学者がこの一字に着眼しないで、あたかも動きの取れぬ死物のように、研究の材料を取り扱いながらかえって平気でいるのを、常に飽《あ》き足らず眺めていたのみならず、自分と親密の関係を有する文芸上の議論が、ことにこの弊《へい》に陥《おちい》りやすく、また陥りつつあるように見えるのを遺憾《いかん》と批判していたから、参考のため、一度は魯国当局者を恐れしめたというこの力学的社会学なるものを一読したいと思っていた。実は自分の恥《はじ》を白状するようではなはだきまりが悪いが、これはけっして新しい本ではない。製本の体裁《ていさい》からしてがすでにスペンサーの綜合哲学《そうごうてつがく》に類した古風なものである。けれどもまた恐ろしく分厚《ぶあつ》に書き上げた著作で、上下二巻を通じて千五百頁ほどある大冊子だから、四五日はおろか一週間かかっても楽に読みこなす事はでき悪《にく》い。それでやむをえず時機の来るまでと思って、本箱の中へしまっておいたのを、小説類に興味を失《しっ》したこの頃の読物としては適当だろうとふ
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