ていたのを、三日ばかりで面白く読み了《おわ》った。ことに文学者たる自分の立場から見て、教授が何事によらず具体的の事実を土台として、類推《アナロジー》で哲学の領分に切り込んで行く所を面白く読み了った。余はあながちに弁証法《ダイアレクチック》を嫌《きら》うものではない。また妄《みだ》りに理知主義《インテレクチュアリズム》を厭《いと》いもしない。ただ自分の平生文学上に抱いている意見と、教授の哲学について主張するところの考とが、親しい気脈を通じて彼此相倚《ひしあいよ》るような心持がしたのを愉快に思ったのである。ことに教授が仏蘭西《フランス》の学者ベルグソンの説を紹介する辺《あた》りを、坂に車を転がすような勢《いきおい》で馳《か》け抜けたのは、まだ血液の充分に通いもせぬ余の頭に取って、どのくらい嬉しかったか分らない。余が教授の文章にいたく推服したのはこの時である。
今でも覚えている。一間《ひとま》おいて隣にいる東君《ひがしくん》をわざわざ枕元へ呼んで、ジェームスは実に能文家《のうぶんか》だと教えるように云って聞かした。その時東君は別にこれという明暸《めいりょう》な答をしなかったので、余は、君、西洋人の書物を読んで、この人のは流暢《りゅうちょう》だとか、あの人のは細緻《さいち》だとか、すべて特色のあるところがその書きぶりで、読みながら解るかいと失敬な事を問い糺《ただ》した。
教授の兄弟にあたるヘンリーは、有名な小説家で、非常に難渋《なんじゅう》な文章を書く男である。ヘンリーは哲学のような小説を書き、ウィリアムは小説のような哲学を書く、と世間で云われているくらいヘンリーは読みづらく、またそのくらい教授は読みやすくて明快なのである。――病中の日記を検《しら》べて見ると九月二十三日の部に、「午前ジェームスを読《よ》み了《おわ》る。好い本を読んだと思う」と覚束《おぼつか》ない文字《もんじ》で認《したた》めてある。名前や標題に欺《だま》されて下らない本を読んだ時ほど残念な事はない。この日記は正にこの裏を云ったものである。
余の病気について治療上いろいろ好意を表してくれた長与病院長《ながよびょういんちょう》は、余の知らない間にいつか死んでいた。余の病中に、空漠《くうばく》なる余の頭に陸離《りくり》の光彩を抛《な》げ込《こ》んでくれたジェームス教授も余の知らない間にいつか死んでいた。二人に謝すべき余はただ一人生き残っている。
菊の雨われに閑《かん》ある病《やまい》哉《かな》
菊の色|縁《えん》に未《いまだ》し此《この》晨《あした》
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(ジェームス教授の哲学思想が、文学の方面より見て、どう面白いかここに詳説する余地がないのは余の遺憾《いかん》とするところである。また教授の深く推賞したベルグソンの著書のうち第一巻は昨今ようやく英訳になってゾンネンシャインから出版された。その標題は Time and Free Will(時と自由意思)と名づけてある。著者の立場は無論故教授と同じく反理知派である。)
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四
病《やまい》の重かった時は、固《もと》よりその日その日に生きていた。そうしてその日その日に変って行った。自分にもわが心の水のように流れ去る様がよく分った。自白すれば雲と同じくかつ去《さ》りかつ来《きた》るわが脳裡《のうり》の現象は、極《きわ》めて平凡なものであった。それも自覚していた。生涯《しょうがい》に一度か二度の大患に相応するほどの深さも厚さもない経験を、恥《はじ》とも思わず無邪気に重ねつつ移って行くうちに、それでも他日の参考に日ごとの心を日ごとに書いておく事ができたならと思い出した。その時の余は無論手が利《き》かなかった。しかも日は容易に暮れ容易に明けた。そうして余の頭を掠《かす》めて去《さ》る心の波紋《はもん》は、随《したが》って起《おこ》るかと思えば随《したが》って消えてしまった。余は薄ぼけて微《かす》かに遠きに行くわが記憶の影を眺めては、寝ながらそれを呼び返したいような心持がした。ミュンステルベルグと云う学者の家に賊が入った引合《ひきあい》で、他日彼が法庭《ほうてい》へ呼び出されたとき、彼の陳述はほとんど事実に相違する事ばかりであったと云う話がある。正確を旨《むね》とする几帳面《きちょうめん》な学者の記憶でも、記憶はこれほどに不慥《ふたしか》なものである。「思い出す事など」の中に思い出す事が、日を経《ふ》れば経るに従って色彩を失うのはもちろんである。
わが手の利《き》かぬ先にわが失えるものはすでに多い。わが手筆を持つの力を得てより逸《いっ》するものまた少からずと云っても嘘《うそ》にはならない。わが病気の経過と、病気の経過に伴《つ》れて起る内面の生活とを、不秩序ながら断片的にも叙しておきたいと思い立ったのはこれがためである。友人のうちには、もうそれほど好くなったかと喜んでくれたものもある。あるいはまたあんな軽挙《かるはずみ》をしてやり損《そこ》なわなければいいがと心配してくれたものもある。
その中で一番|苦《にが》い顔をしたのは池辺三山君《いけべさんざんくん》であった。余が原稿を書いたと聞くや否や、たちまち余計な事だと叱りつけた。しかもその声はもっとも無愛想《ぶあいそう》な声であった。医者の許可を得たのだから、普通の人の退屈凌《たいくつしの》ぎぐらいなところと見たらよかろうと余は弁解した。医者の許可もさる事だが、友人の許可を得なければいかんと云うのが三山君の挨拶《あいさつ》であった。それから二三日して三山君が宮本博士に会ってこの話をすると、博士は、なるほど退屈をすると胃に酸《さん》が湧《わ》く恐れがあるからかえって悪いだろうと調停してくれたので、余はようやく助かった。
その時余は三山君に、
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遺却新詩無処尋[#「遺却新詩無処尋」に白丸傍点]。 ※[#「口+荅」、第4水準2−4−16]然隔※[#「片+(戸+甫)」、第3水準1−87−69]対遥林[#「※[#「口+荅」、第4水準2−4−16]然隔※[#「片+(戸+甫)」、第3水準1−87−69]対遥林」に白丸傍点]。
斜陽満径照僧遠[#「斜陽満径照僧遠」に白丸傍点]。 黄葉一村蔵寺深[#「黄葉一村蔵寺深」に白丸傍点]。
懸偈壁間焚仏意[#「懸偈壁間焚仏意」に白丸傍点]。 見雲天上抱琴心[#「見雲天上抱琴心」に白丸傍点]。
人間至楽江湖老[#「人間至楽江湖老」に白丸傍点]。 犬吠鶏鳴共好音[#「犬吠鶏鳴共好音」に白丸傍点]。
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と云う詩を遺《おく》った。巧拙《こうせつ》は論外として、病院にいる余が窓から寺を望む訳もなし、また室内に琴《こと》を置く必要もないから、この詩は全くの実況に反しているには違《ちがい》ないが、ただ当時の余の心持を咏《えい》じたものとしてはすこぶる恰好《かっこう》である。宮本博士が退屈をすると酸《さん》がたまると云ったごとく、忙殺《ぼうさつ》されて酸が出過ぎる事も、余は親しく経験している。詮《せん》ずるところ、人間は閑適《かんてき》の境界《きょうがい》に立たなくては不幸だと思うので、その閑適をしばらくなりとも貪《むさぼ》り得《う》る今の身の嬉しさが、この五十六字に形を変じたのである。
もっとも趣《おもむき》から云えばまことに旧《ふる》い趣である。何の奇もなく、何の新もないと云ってもよい。実際ゴルキーでも、アンドレーフでも、イブセンでもショウでもない。その代りこの趣は彼ら作家のいまだかつて知らざる興味に属している。また彼らのけっして与《あず》からざる境地に存している。現今《げんこん》の吾《われ》らが苦しい実生活に取り巻かれるごとく、現今の吾等が苦しい文学に取りつかれるのも、やむをえざる悲しき事実ではあるが、いわゆる「現代的気風」に煽《あお》られて、三百六十五日の間、傍目《わきめ》もふらず、しかく人世を観《かん》じたら、人世は定めし窮屈でかつ殺風景なものだろう。たまにはこんな古風の趣がかえって一段の新意《しんい》を吾らの内面生活上に放射するかも知れない。余は病《やまい》に因《よ》ってこの陳腐《ちんぷ》な幸福と爛熟《らんじゅく》な寛裕《くつろぎ》を得て、初めて洋行から帰って平凡な米の飯に向った時のような心持がした。
「思い出す事など」は忘れるから思い出すのである。ようやく生き残って東京に帰った余は、病に因って纔《わず》かに享《う》けえたこの長閑《のどか》な心持を早くも失わんとしつつある。まだ床《とこ》を離れるほどに足腰が利《き》かないうちに、三山君に遺った詩が、すでにこの太平の趣をうたうべき最後の作ではなかろうかと、自分ながら掛念《けねん》しているくらいである。「思い出す事など」は平凡で低調な個人の病中における述懐《じゅっかい》と叙事に過ぎないが、その中《うち》にはこの陳腐《ちんぷ》ながら払底《ふってい》な趣《おもむき》が、珍らしくだいぶ這入《はい》って来るつもりであるから、余は早く思い出して、早く書いて、そうして今の新らしい人々と今の苦しい人々と共に、この古い香《かおり》を懐《なつ》かしみたいと思う。
五
修善寺《しゅぜんじ》にいる間は仰向《あおむけ》に寝たままよく俳句を作っては、それを日記の中に記《つ》け込《こ》んだ。時々は面倒な平仄《ひょうそく》を合わして漢詩さえ作って見た。そうしてその漢詩も一つ残らず未定稿《みていこう》として日記の中に書きつけた。
余は年来俳句に疎《うと》くなりまさった者である。漢詩に至っては、ほとんど当初からの門外漢と云ってもいい。詩にせよ句にせよ、病中にでき上ったものが、病中の本人にはどれほど得意であっても、それが専門家の眼に整って(ことに現代的に整って)映るとは無論思わない。
けれども余が病中に作り得た俳句と漢詩の価値は、余自身から云うと、全くその出来不出来に関係しないのである。平生《へいぜい》はいかに心持の好くない時でも、いやしくも塵事《じんじ》に堪《た》え得るだけの健康をもっていると自信する以上、またもっていると人から認められる以上、われは常住日夜《じょうじゅうにちや》共に生存競争裏《せいぞんきょうそうり》に立つ悪戦の人である。仏語《ぶつご》で形容すれば絶えず火宅《かたく》の苦《く》を受けて、夢の中でさえいらいらしている。時には人から勧められる事もあり、たまには自《みずか》ら進む事もあって、ふと十七字を並べて見たりまたは起承転結《きしょうてんけつ》の四句ぐらい組み合せないとも限らないけれどもいつもどこかに間隙《すき》があるような心持がして、隈《くま》も残さず心を引《ひ》き包《くる》んで、詩と句の中に放り込む事ができない。それは歓楽を嫉《ねた》む実生活の鬼の影が風流に纏《まつわ》るためかも知れず、または句に熱し詩に狂するのあまり、かえって句と詩に翻弄《ほんろう》されて、いらいらすまじき風流にいらいらする結果かも知れないが、それではいくら佳句《かく》と好詩《こうし》ができたにしても、贏《か》ち得《う》る当人の愉快はただ二三|同好《どうこう》の評判だけで、その評判を差し引くと、後《あと》に残るものは多量の不安と苦痛に過ぎない事に帰着してしまう。
ところが病気をするとだいぶ趣が違って来る。病気の時には自分が一歩現実の世を離れた気になる。他《ひと》も自分を一歩社会から遠ざかったように大目に見てくれる。こちらには一人前《いちにんまえ》働かなくてもすむという安心ができ、向うにも一人前として取り扱うのが気の毒だという遠慮がある。そうして健康の時にはとても望めない長閑《のど》かな春がその間から湧《わ》いて出る。この安らかな心がすなわちわが句、わが詩である。したがって、出来栄《できばえ》の如何《いかん》はまず措《お》いて、できたものを太平の記念と見る当人にはそれがどのくらい貴《とうと》いか分らない。病中に得た句と詩は、退屈を紛《まぎ》らすため、閑《かん》に強《し》いられた仕事ではない。実生活の圧迫
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