は一時間のうちに、何度となく含嗽をさせて貰った。そうしてそのつど人に知れないように、そっと含嗽の水を幾分かずつ胃の中に飲み下して、やっと熬《い》りつくような渇《かわき》を紛《まぎ》らしていた。
 昔の計《はかりごと》を繰り返す勇気のなかった余は、口中《こうちゅう》を潤《うるお》すための氷を歯で噛《か》み砕《くだ》いては、正直に残らず吐き出した。その代り日に数回|平野水《ひらのすい》を一口ずつ飲まして貰う事にした。平野水がくんくんと音を立てるような勢で、食道から胃へ落ちて行く時の心持は痛快であった。けれども咽喉を通り越すや否やすぐとまた飲みたくなった。余は夜半《よなか》にしばしば看護婦から平野水を洋盃《コップ》に注《つ》いで貰って、それをありがたそうに飲んだ当時をよく記憶している。
 渇《かつ》はしだいに歇《や》んだ。そうして渇よりも恐ろしい餓《ひも》じさが腹の中を荒して歩くようになった。余は寝ながら美くしい食膳《しょくぜん》を何通《なんとお》りとなく想像で拵《こし》らえて、それを眼の前に並べて楽んでいた。そればかりではない、同じ献立《こんだて》を何人前も調《ととの》えておいて、多数の朋友にそれを想像で食わして喜こんだ。今考えると普通のものの嬉しがるような食物《くいもの》はちっともなかった。こう云う自分にすらあまりありがたくはない御膳《おぜん》ばかりを眼の前に浮べていたのである。
 森成さんがもう葛湯《くずゆ》も厭《あ》きたろうと云って、わざわざ東京から米を取り寄せて重湯《おもゆ》を作ってくれた時は、重湯を生れて始めて啜《すす》る余には大いな期待があった。けれども一口飲んで始めてその不味《まず》いのに驚ろいた余は、それぎり重湯というものを近づけなかった。その代りカジノビスケットを一片《ひときれ》貰った折の嬉《うれ》しさはいまだに忘れられない。わざわざ看護婦を医師の室《へや》までやって、特に礼を述べたくらいである。
 やがて粥《かゆ》を許された。その旨《うま》さはただの記憶となって冷やかに残っているだけだから実感としては今思い出せないが、こんな旨いものが世にあるかと疑いつつ舌を鳴らしたのは確かである。それからオートミールが来た。ソーダビスケットが来た。余はすべてをありがたく食った。そうして、より多く食いたいと云う事を日課のように繰り返して森成さんに訴えた。森成さんはしまいに余の病床に近づくのを恐れた。東君《ひがしくん》はわざわざ妻《さい》の所へ行って、先生はあんなもっともな顔をしている癖に、子供のように始終《しじゅう》食物《くいもの》の話ばかりしていておかしいと告げた。
[#ここから2字下げ]
腸《はらわた》に春|滴《したた》るや粥の味
[#ここで字下げ終わり]

        二十七

 オイッケンは精神生活と云う事を真向《まむき》に主張する学者である。学者の習慣として、自己の説を唱《とな》うる前には、あらゆる他のイズムを打破する必要を感ずるものと見えて、彼は彼のいわゆる精神生活を新たならしむるため、その用意として、現代生活に影響を与うる在来からの処生上の主義に一も二もなく非難を加えた。自然主義もやられる、社会主義も叩《たた》かれる。すべての主義が彼の眼から見て存在の権利を失ったかのごとくに説き去られた時、彼は始めて精神生活の四字を拈出《ねんしゅつ》した。そうして精神生活の特色は自由である、自由であると連呼《れんこ》した。
 試みに彼に向って自由なる精神生活とはどんな生活かと問えば、端的《たんてき》にこんなものだとはけっして答えない。ただ立派な言葉を秩序よく並べ立てる。むずかしそうな理窟《りくつ》を蜿蜒《えんえん》と幾重《いくえ》にも重ねて行く。そこに学者らしい手際《てぎわ》はあるかも知れないが、とぐろの中に巻き込まれる素人《しろうと》は茫然《ぼんやり》してしまうだけである。
 しばらく哲学者の言葉を平民に解るように翻訳して見ると、オイッケンのいわゆる自由なる精神生活とは、こんなものではなかろうか。――我々は普通衣食のために働らいている。衣食のための仕事は消極的である。換言すると、自分の好悪《こうお》撰択を許さない強制的の苦しみを含んでいる。そう云う風にほかから圧《お》しつけられた仕事では精神生活とは名づけられない。いやしくも精神的に生活しようと思うなら、義務なきところに向って自《みずか》ら進む積極のものでなければならない。束縛によらずして、己《おの》れ一個の意志で自由に営む生活でなければならない。こう解釈した時、誰も彼の精神生活を評してつまらないとは云うまい。コムトは倦怠《アンニュイ》をもって社会の進歩を促《うな》がす原因と見たくらいである。倦怠の極やむをえずして仕事を見つけ出すよりも、内に抑《おさ》えがたき或るものが蟠《わだか》まって、じっと持《も》ち応《こた》えられない活力を、自然の勢から生命の波動として描出《びょうしゅつ》し来《きた》る方が実際|実《み》の入《い》った生《い》き法《かた》と云わなければなるまい。舞踏でも音楽でも詩歌《しいか》でも、すべて芸術の価値はここに存していると評しても差支《さしつか》えない。
 けれども学者オイッケンの頭の中で纏《まと》め上げた精神生活が、現に事実となって世の中に存在し得るや否やに至っては自《おのず》から別問題である。彼オイッケン自身が純一無雑に自由なる精神生活を送り得るや否やを想像して見ても分明《ぶんみょう》な話ではないか。間断なきこの種の生活に身を託せんとする前に、吾人は少なくとも早くすでに職業なき閑人として存在しなければならないはずである。
 豆腐屋が気に向いた朝だけ石臼を回して、心の機《はず》まないときはけっして豆を挽《ひ》かなかったなら商買《しょうばい》にはならない。さらに進んで、己《おの》れの好いた人だけに豆腐を売って、いけ好かない客をことごとく謝絶したらなおの事商買にはならない。すべての職業が職業として成立するためには、店に公平の灯《ともし》を点《つ》けなければならない。公平と云う美しそうな徳義上の言葉を裏から言い直すと、器械的と云う醜い本体を有しているに過ぎない。一分《いっぷん》の遅速なく発着する汽車の生活と、いわゆる精神的生活とは、正に両極に位する性質のものでなければならない。そうして普通の人は十が十までこの両端を七分三分《しちぶさんぶ》とか六分四分《ろくぶしぶ》とかに交《ま》ぜ合《あ》わして自己に便宜《べんぎ》なようにまた世間に都合の好いように(すなわち職業に忠実なるように)生活すべく天《てん》から余儀なくされている。これが常態である。たまたま芸術の好きなものが、好きな芸術を職業とするような場合ですら、その芸術が職業となる瞬間において、真の精神生活はすでに汚《けが》されてしまうのは当然である。芸術家としての彼は己《おの》れに篤《あつ》き作品を自然の気乗りで作り上げようとするに反して、職業家としての彼は評判のよきもの、売高《うれだか》の多いものを公《おおや》けにしなくてはならぬからである。
 すでに個人の性格及び教育次第で融通の利《き》かなくなりそうなオイッケンのいわゆる自由なる精神生活は、現今の社会組織の上から見ても、これほど応用の範囲の狭いものになる。それを一般に行《ゆ》き亘《わた》って実行のできる大主義のごとくに説き去る彼は、学者の通弊として統一病に罹《かか》ったのだと酷評を加えてもよいが、たまたま文芸を好んで文芸を職業としながら、同時に職業としての文芸を忌《い》んでいる余のごときものの注意を呼び起して、その批評心を刺戟《しげき》する力は充分ある。大患に罹《かか》った余は、親の厄介になった子供の時以来久しぶりで始めてこの精神生活の光に浴した。けれどもそれはわずか一二カ月の中であった。病《やまい》が癒《なお》るに伴《つ》れ、自己がしだいに実世間に押し出されるに伴れ、こう云う議論を公けにして得意なオイッケンを羨《うら》やまずにはいられなくなって来た。

        二十八

 学校を出た当時小石川のある寺に下宿をしていた事がある。そこの和尚《おしょう》は内職に身の上判断をやるので、薄暗い玄関の次の間に、算木《さんぎ》と筮竹《ぜいちく》を見るのが常であった。固《もと》より看板をかけての公表《おもてむき》な商買《しょうばい》でなかったせいか、占《うらない》を頼《たのみ》に来るものは多くて日に四五人、少ない時はまるで筮竹を揉《も》む音さえ聞えない夜もあった。易断《えきだん》に重きを置かない余は、固よりこの道において和尚と無縁の姿であったから、ただ折々|襖越《ふすまご》しに、和尚の、そりゃ当人の望み通りにした方が好うがすななどと云う縁談に関する助言《じょごん》を耳に挟《さしは》さむくらいなもので、面と向き合っては互に何も語らずに久しく過ぎた。
 ある時何かのついでに、話がつい人相とか方位とか云う和尚の縄張《なわば》り内に摺《ず》り込《こ》んだので、冗談半分|私《わたし》の未来はどうでしょうと聞いて見たら、和尚は眼を据《す》えて余の顔をじっと眺めた後《あと》で、大して悪い事もありませんなと答えた。大して悪い事もないと云うのは、大して好い事もないと云ったも同然で、すなわち御前の運命は平凡だと宣告したようなものである。余は仕方がないから黙っていた。すると和尚が、あなたは親の死目には逢《あ》えませんねと云った。余はそうですかと答えた。すると今度はあなたは西へ西へと行く相があると云った。余はまたそうですかと答えた。最後に和尚は、早く顋《あご》の下へ髯《ひげ》を生やして、地面を買って居宅《うち》を御建てなさいと勧めた。余は地面を買って居宅を建て得る身分なら何も君の所に厄介になっちゃいないと答えたかった。けれども顋の下の髯と、地面|居宅《やしき》とはどんな関係があるか知りたかったので、それだけちょっと聞き返して見た。すると和尚は真面目《まじめ》な顔をして、あなたの顔を半分に割ると上の方が長くって、下の方が短か過ぎる。したがって落ちつかない。だから早く顋髯を生やして上下の釣合《つりあい》を取るようにすれば、顔の居坐《いすわ》りがよくなって動かなくなりますと答えた。余は余の顔の雑作《ぞうさく》に向って加えられたこの物理的もしくは美学的の批判が、優に余の未来の運命を支配するかのごとく容易に説き去った和尚を少しおかしく感じた。そうしてなるほどと答えた。
 一年ならずして余は松山に行った。それからまた熊本に移った。熊本からまた倫敦《ロンドン》に向った。和尚の云った通り西へ西へと赴《おもむ》いたのである。余の母は余の十三四の時に死んだ。その時は同じ東京におりながら、つい臨終の席には侍《はんべ》らなかった。父の死んだ電報を東京から受け取ったのは、熊本にいる頃の事であった。これで見ると、親の死目に逢《あ》えないと云った和尚の言葉もどうかこうか的中している。ただ顋《あご》の髯《ひげ》に至ってはその時から今日《こんにち》に至るまで、寧日《ねいじつ》なく剃《そ》り続けに剃っているから、地面と居宅《やしき》がはたして髯と共にわが手に入《い》るかどうかいまだに判然《はんぜん》せずにいた。
 ところが修善寺《しゅぜんじ》で病気をして寝つくや否や、頬がざらざらし始めた。それが五六日すると一本一本に撮《つま》めるようになった。またしばらくすると、頬から顋《あご》が隙間《すきま》なく隠れるようになった。和尚《おしょう》の助言《じょごん》は十七八年ぶりで始めて役に立ちそうな気色《けしき》に髯は延びて来た。妻《さい》はいっそ御生《おは》やしなすったら好いでしょうと云った。余も半分その気になって、しきりにその辺を撫《な》で廻していた。ところが幾日《いくか》となく洗いも櫛《くしけ》ずりもしない髪が、膏《あぶら》と垢《あか》で余の頭を埋《うず》め尽《つ》くそうとする汚苦《むさくる》しさに堪《た》えられなくなって、ある日床屋を呼んで、不充分ながら寝たまま頭に手を入れて顔に髪剃《かみそり》を当てた。その時地面
前へ 次へ
全15ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング