が自分に対して相応の義務を尽くしてくれるのは無論ありがたい。けれども義務とは仕事に忠実なる意味で、人間を相手に取った言葉でも何でもない。したがって義務の結果に浴する自分は、ありがたいと思いながらも、義務を果した先方に向って、感謝の念を起《おこ》し悪《にく》い。それが好意となると、相手の所作《しょさ》が一挙一動ことごとく自分を目的にして働いてくるので、活物《いきもの》の自分にその一挙一動がことごとく応《こた》える。そこに互を繋《つな》ぐ暖い糸があって、器械的な世を頼母《たのも》しく思わせる。電車に乗って一区を瞬《またた》く間に走るよりも、人の背に負われて浅瀬を越した方が情《なさけ》が深い。
義務さえ素直《すなお》には尽くして呉れる人のない世の中に、また自分の義務さえ碌《ろく》に尽くしもしない世の中に、こんな贅沢《ぜいたく》を並べるのは過分である。そうとは知りながら余は好意の干乾《ひから》びた社会に存在する自分を切《せつ》にぎごちなく感じた。――或る人の書いたものの中に、余りせち辛《がら》い世間だから、自用車《じようしゃ》を節倹する格で、当分良心を質に入れたとあったが、質に入れるのは固《
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