う》めて、始めて全くでき上る構図をふり返って見ると、いわゆる慄然《りつぜん》と云う感じに打たれなければやまなかった。その恐ろしさに比例して、九仞《きゅうじん》に失った命を一簣《いっき》に取り留める嬉《うれ》しさはまた特別であった。この死この生に伴う恐ろしさと嬉しさが紙の裏表のごとく重なったため、余は連想上常にドストイェフスキーを思い出したのである。
「もし最後の一節を欠いたなら、余はけっして正気ではいられなかったろう」と彼自身が物語っている。気が狂うほどの緊張を幸いに受けずとすんだ余には、彼の恐ろしさ嬉しさの程度を料《はか》り得ぬと云う方がむしろ適当かも知れぬ。それであればこそ、画竜点睛《がりゅうてんせい》とも云うべき肝心《かんじん》の刹那《せつな》の表情が、どう想像しても漠《ばく》として眼の前に描き出せないのだろう。運命の擒縦《きんしょう》を感ずる点において、ドストイェフスキーと余とは、ほとんど詩と散文ほどの相違がある。
それにもかかわらず、余はしばしばドストイェフスキーを想像してやまなかった。そうして寒い空と、新らしい刑壇と、刑壇の上に立つ彼の姿と、襯衣《シャツ》一枚で顫《ふる》
前へ
次へ
全144ページ中92ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング