や》の廂《ひさし》と、向うの三階の屋根の間に、青い空が見えた。その空が秋の露《つゆ》に洗われつつしだいに高くなる時節であった。余は黙ってこの空を見つめるのを日課のようにした。何事もない、また何物もないこの大空は、その静かな影を傾むけてことごとく余の心に映じた。そうして余の心にも何事もなかった。また何物もなかった。透明な二つのものがぴたりと合った。合って自分に残るのは、縹緲《ひょうびょう》とでも形容してよい気分であった。
 そのうち穏かな心の隅《すみ》が、いつか薄く暈《ぼか》されて、そこを照らす意識の色が微《かす》かになった。すると、ヴェイルに似た靄《もや》が軽く全面に向って万遍《まんべん》なく展《の》びて来た。そうして総体の意識がどこもかしこも稀薄《きはく》になった。それは普通の夢のように濃いものではなかった。尋常の自覚のように混雑したものでもなかった。またその中間に横《よこた》わる重い影でもなかった。魂が身体《からだ》を抜けると云ってはすでに語弊がある。霊が細《こま》かい神経の末端にまで行き亘《わた》って、泥でできた肉体の内部を、軽く清くすると共に、官能の実覚から杳《はる》かに遠から
前へ 次へ
全144ページ中87ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング