るまで、そう云う趣《おもむき》に一瞬間も捕われた記憶をもたない。ただ大吐血後五六日――経《た》つか経たないうちに、時々一種の精神状態に陥《おちい》った。それからは毎日のように同じ状態を繰り返した。ついには来ぬ先にそれを予期するようになった。そうして自分とは縁の遠いドストイェフスキーの享《う》けたと云う不可解の歓喜をひそかに想像してみた。それを想像するか思い出すほどに、余の精神状態は尋常を飛び越えていたからである。ドクインセイの細《こま》かに書き残した驚くべき阿片《あへん》の世界も余の連想に上《のぼ》った。けれども読者の心目《しんもく》を眩惑《げんわく》するに足る妖麗《ようれい》な彼の叙述が、鈍《にぶ》い色をした卑しむべき原料から人工的に生れたのだと思うと、それを自分の精神状態に比較するのが急に厭《いや》になった。
 余は当時十分と続けて人と話をする煩《わずら》わしさを感じた。声となって耳に響く空気の波が心に伝《つたわ》って、平らかな気分をことさらに騒《ざわ》つかせるように覚えた。口を閉じて黄金《こがね》なりという古い言葉を思い出して、ただ仰向《あおむ》けに寝ていた。ありがたい事に室《へ
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