。余は寝ていた。黙って寝ていただけである。すると医者が来た。社員が来た。妻《さい》が来た。しまいには看護婦が二人来た。そうしてことごとく余の意志を働かさないうちに、ひとりでに来た。
「安心して療養せよ」と云う電報が満洲から、血を吐いた翌日に来た。思いがけない知己《ちき》や朋友が代る代る枕元《まくらもと》に来た。あるものは鹿児島から来た。あるものは山形から来た。またあるものは眼の前に逼《せま》る結婚を延期して来た。余はこれらの人に、どうして来たと聞いた。彼等は皆新聞で余の病気を知って来たと云った。仰向《あおむけ》に寝た余は、天井を見つめながら、世の人は皆自分より親切なものだと思った。住《す》み悪《にく》いとのみ観じた世界にたちまち暖かな風が吹いた。
 四十を越した男、自然に淘汰《とうた》せられんとした男、さしたる過去を持たぬ男に、忙《いそが》しい世が、これほどの手間と時間と親切をかけてくれようとは夢にも待設けなかった余は、病《やまい》に生き還《かえ》ると共に、心に生き還った。余は病に謝した。また余のためにこれほどの手間と時間と親切とを惜しまざる人々に謝した。そうして願わくは善良な人間にな
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