布団に触れる所のみがわが世界であるだけに、そうしてその触れる所が少しも変らないために、我と世界との関係は、非常に単純であった。全くスタチック(静《せい》)であった。したがって安全であった。綿《わた》を敷いた棺《かん》の中に長く寝て、われ棺を出でず、人棺を襲《おそ》わざる亡者《もうじゃ》の気分は――もし亡者に気分が有り得るならば、――この時の余のそれと余りかけ隔《へだ》ってはいなかったろう。
しばらくすると、頭が麻痺《しび》れ始めた。腰の骨が骨だけになって板の上に載《の》せられているような気がした。足が重くなった。かくして社会的の危険から安全に保証された余|一人《いちにん》の狭い天地にもまた相応の苦しみができた。そうしてその苦痛を逃《のが》れるべく余は一寸《いっすん》のほかにさえ出る能力を持たなかった。枕元にどんな人がどうして坐《すわ》っているか、まるで気がつかなかった。余を看護するために、余の視線の届かぬ傍《かたわ》らを占めた人々の姿は、余に取って神のそれと一般であった。
余はこの安らかながら痛み多き小世界にじっと仰向《あおむけ》に寝たまま、身の及ばざるところに時々眼を走らした。そ
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