《ていちょう》な保護を受けて、健康な時に比べると、一歩浮世の風の当《あた》り悪《にく》い安全な地に移って来たように感じた。実際余と余の妻とは、生存競争の辛《から》い空気が、直《じか》に通わない山の底に住んでいたのである。
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露けさの里にて静《しずか》なる病《やまい》
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十七
臆病者の特権として、余はかねてより妖怪《ようかい》に逢《あ》う資格があると思っていた。余の血の中には先祖の迷信が今でも多量に流れている。文明の肉が社会の鋭どき鞭《むち》の下《もと》に萎縮《いしゅく》するとき、余は常に幽霊を信じた。けれども虎烈剌《コレラ》を畏《おそ》れて虎烈剌に罹《かか》らぬ人のごとく、神に祈って神に棄《す》てられた子のごとく、余は今日《きょう》までこれと云う不思議な現象に遭遇する機会もなく過ぎた。それを残念と思うほどの好奇心もたまには起るが、平生はまず出逢《であ》わないのを当然と心得てすまして来た。
自白すれば、八九年前アンドリュ・ラングの書いた「夢と幽霊」という書物を床の中に読んだ時は、鼻の先の灯火《ともしび》を一時に寒く眺め
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