たいくらいに、余は平常《へいぜい》の心持で苦痛なくその夜を明したのである。――話がつい外《そ》れてしまった。
 杉本さんは東京へ帰るや否や、自分で電話を看護婦会へかけて、看護婦を二人すぐ余の出先へ送るように頼んでくれた。その時、早く行かんと間に合わないかも知れないからと電話口で急《せ》いたので、看護婦は汽車で走る途々《みちみち》も、もういけない頃ではなかろうかと、絶えず余の生命に疑いを挟《さしは》さんでいた。せっかく行っても、行き着いて見たら、遅過ぎて間に合わなかったと云うような事があってはつまらないと語り合って来た。――これも回復期に向いた頃、病牀《びょうしょう》の徒然《つれづれ》に看護婦と世間話をしたついでに、彼等の口からじかに聞いたたよりである。
 かくすべての人に十の九まで見放された真中《まなか》に、何事も知らぬ余は、曠野《こうや》に捨てられた赤子《あかご》のごとく、ぽかんとしていた。苦痛なき生は余に向って何らの煩悶《はんもん》をも与えなかった。余は寝ながらただ苦痛なく生きておるという一事実を認めるだけであった。そうしてこの事実が、はからざる病《やまい》のために、周囲の人の丁重
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