付け加えた時ですら、余はこれほど無理な工面《くめん》をして生き延びたのだとは思えなかった。
 杉本さんが東京へ帰るや否や、――杉本さんはその朝すぐ東京へ帰った。もっとおりたいが忙がしいから失礼します、その代り手当は充分するつもりでありますと云って、新らしい襟《えり》と襟飾《えりかざり》を着け易《か》えて、余の枕辺に坐ったとき、余は昨夕《ゆうべ》夜半《よなか》に、裄丈《ゆきたけ》の足りない宿の浴衣《ゆかた》を着たまま、そっと障子《しょうじ》を開けながら、どうかと一言《ひとこと》森成さんに余の様子を聞いていた彼人《かのひと》の様子を思い出した。余の記憶にはただそれだけしかとまらなかった杉本さんが、出がけに妻を顧みて、もう一遍吐血があれば、どうしても回復の見込はないものと御諦《おあき》らめなさらなければいけませんと注意を与えたそうである。実は昨夕にもこの恐るべき再度の吐血が来そうなので、わざわざモルヒネまで注射してそれを防ぎ止めたのだとは、後《のち》になってその顛末《てんまつ》を審《つまび》らかにした余に取って、全く思いがけない報知であった。あれほど胸の中《うち》は落ちついていたものをと云い
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