事を知らなかった。帰る明《あく》る朝|妻《さい》が来て実はこれこれでと話をするまで、院長は余の病気の経過を東京にいて承知しているものと信じていた。そうして回復の上病院を出たら礼にでも行こうと思っていた。もし病院で会えたら篤《あつ》く謝意でも述べようと思っていた。
  逝《ゆ》く人に留《とど》まる人に来《きた》る雁《かり》
 考えると余が無事に東京まで帰れたのは天幸《てんこう》である。こうなるのが当り前のように思うのは、いまだに生きているからの悪度胸《わるどきょう》に過ぎない。生き延びた自分だけを頭に置かずに、命の綱を踏《ふ》み外《はず》した人の有様も思い浮べて、幸福な自分と照らし合せて見ないと、わがありがたさも分らない、人の気の毒さも分らない。
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ただ一羽|来《く》る夜ありけり月の雁《かり》
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        三

 ジェームス教授の訃《ふ》に接したのは長与院長の死を耳にした明日《あくるひ》の朝である。新着の外国雑誌を手にして、五六|頁《ページ》繰って行くうちに、ふと教授の名前が眼にとまったので、また新らしい著書でも公《おおや》けにしたの
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