《ぼうじん》からとうてい回復の見込がないように思われた二三日|後《あと》、森成さんが病院の用事だからと云って、ちょっと東京へ帰ったのは、生前に一度院長に会うためで、それから十日ほど経《た》って、また病院の用事ができて二度東京へ戻ったのは院長の葬式に列するためであったそうである。
 当初から余に好意を表して、間接に治療上の心配をしてくれた院長はかくのごとくしだいに死に近づきつつある間に、余は不思議にも命の幅《はば》の縮《ちぢ》まってほとんど絹糸のごとく細くなった上を、ようやく無難に通り越した。院長の死が一基の墓標で永く確《たしか》められたとき、辛抱強く骨の上に絡《から》みついていてくれた余の命の根は、辛《かろ》うじて冷たい骨の周囲に、血の通う新しい細胞を営み初めた。院長の墓の前に供えられる花が、幾度《いくたび》か枯れ、幾度か代って、萩、桔梗《ききょう》、女郎花《おみなえし》から白菊と黄菊に秋を進んで来た一カ月|余《よ》の後《のち》、余はまたその一カ月余の間に盛返し得るほどの血潮を皮下に盛得《もりえ》て、再び院長の建てたこの胃腸病院に帰って来た。そうしてその間いまだかつて院長の死んだと云う
前へ 次へ
全144ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング