ばかりは死んでいらしったのですと聞いた折は全く驚いた。子供のとき悪戯《いたずら》をして気絶をした事は二三度あるから、それから推測して、死とはおおかたこんなものだろうぐらいにはかねて想像していたが、半時間の長き間、その経験を繰返しながら、少しも気がつかずに一カ月あまりを当然のごとくに過したかと思うと、はなはだ不思議な心持がする。実を云うとこの経験――第一経験と云い得るかが疑問である。普通の経験と経験の間に挟まって毫《ごう》もその連結を妨《さまた》げ得ないほど内容に乏しいこの――余は何と云ってそれを形容していいかついに言葉に窮してしまう。余は眠から醒《さ》めたという自覚さえなかった。陰《かげ》から陽《ひ》に出たとも思わなかった。微《かす》かな羽音《はおと》、遠きに去る物の響、逃げて行く夢の匂《にお》い、古い記憶の影、消える印象の名残《なごり》――すべて人間の神秘を叙述すべき表現を数え尽してようやく髣髴《ほうふつ》すべき霊妙な境界《きょうがい》を通過したとは無論考えなかった。ただ胸苦《むなぐる》しくなって枕の上の頭を右に傾むけようとした次の瞬間に、赤い血を金盥の底に認めただけである。その間に
前へ
次へ
全144ページ中65ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング