思い出しては微笑《ほほえ》んでいる。――もっとも苦痛が全く取れて、安臥《あんが》の地位を平静に保っていた余には、充分それだけの余裕があったのであろう。
 余は今まで閉じていた眼を急に開けた。そうしてできるだけ大きな声と明暸《めいりょう》な調子で、私《わたし》は子供などに会いたくはありませんと云った。杉本さんは何事をも意に介せぬごとく、そうですかと軽く答えたのみであった。やがて食いかけた食事を済まして来るとか云って室《へや》を出て行った。それからは左右の手を左右に開いて、その一つずつを森成さんと雪鳥君に握られたまま、三人とも無言のうちに天明に達した。
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冷やかな脈を護《まも》りぬ夜明方《よあけがた》
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        十五

 強《し》いて寝返《ねがえ》りを右に打とうとした余と、枕元の金盥《かなだらい》に鮮血を認めた余とは、一分《いちぶ》の隙《すき》もなく連続しているとのみ信じていた。その間には一本の髪毛《かみげ》を挟《はさ》む余地のないまでに、自覚が働いて来たとのみ心得ていた。ほど経《へ》て妻《さい》から、そうじゃありません、あの時三十分
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