な気がした。しかしそれは確然《はっきり》覚えていない。
 妻《さい》が杉本さんに、これでも元のようになるでしょうかと聞く声が耳に入《い》った。さよう潰瘍《かいよう》ではこれまで随分多量の血を止《と》めた事もありますが……と云う杉本さんの返事が聞えた。すると床の上に釣るした電気灯がぐらぐらと動いた。硝子《ガラス》の中に彎曲《わんきょく》した一本の光が、線香煙花《せんこうはなび》のように疾《と》く閃《きら》めいた。余は生れてからこの時ほど強くまた恐ろしく光力を感じた事がなかった。その咄嗟《とっさ》の刹那《せつな》にすら、稲妻《いなずま》を眸《ひとみ》に焼きつけるとはこれだと思った。時に突然電気灯が消えて気が遠くなった。
 カンフル、カンフルと云う杉本さんの声が聞えた。杉本さんは余の右の手頸《てくび》をしかと握っていた。カンフルは非常によく利《き》くね、注射し切らない内から、もう反響があると杉本さんがまた森成さんに云った。森成さんはええと答えたばかりで、別にはかばかしい返事はしなかった。それからすぐ電気灯に紙の蔽《おおい》をした。
 傍《はた》がひとしきり静かになった。余の左右の手頸は二人の
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