の色は今日《こんにち》までのように酸の作用を蒙《こうむ》った不明暸《ふめいりょう》なものではなかった。白い底に大きな動物の肝《きも》のごとくどろりと固まっていたように思う。その時枕元で含嗽《うがい》を上げましょうという森成さんの声が聞えた。
 余は黙って含嗽をした。そうして、つい今しがた傍《そば》にいる妻に、少しそっちへ退いてくれと云ったほどの煩悶《はんもん》が忽然《こつぜん》どこかへ消えてなくなった事を自覚した。余は何より先にまあよかったと思った。金盥に吐いたものが鮮血であろうと何であろうと、そんな事はいっこう気にかからなかった。日頃からの苦痛の塊《かたまり》を一度にどさりと打ちやり切ったという落ちつきをもって、枕元の人がざわざわする様子をほとんどよそごとのように見ていた。余は右の胸の上部に大きな針を刺されてそれから多量の食塩水を注射された。その時、食塩を注射されるくらいだから、多少危険な容体《ようだい》に逼《せま》っているのだろうとは思ったが、それもほとんど心配にはならなかった。ただ管《くだ》の先から水が洩《も》れて肩の方へ流れるのが厭《いや》であった。左右の腕にも注射を受けたよう
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