ムの吐血は、この吉報を逆襲すべく、診察後一時間後の暮方に、突如として起ったのである。
 かく多量の血を一度に吐いた余は、その暮方の光景から、日のない真夜中を通して、明る日の天明に至る有様を巨細《こさい》残らず記憶している気でいた。程経《ほどへ》て妻《さい》の心覚《こころおぼえ》につけた日記を読んで見て、その中に、ノウヒンケツ(狼狽《ろうばい》した妻は脳貧血をかくのごとく書いている)を起し人事不省に陥《おちい》るとあるのに気がついた時、余は妻は枕辺《まくらべ》に呼んで、当時の模様を委《くわ》しく聞く事ができた。徹頭徹尾|明暸《めいりょう》な意識を有して注射を受けたとのみ考えていた余は、実に三十分の長い間死んでいたのであった。
 夕暮間近く、にわかに胸苦しいある物のために襲われた余は、悶《もだ》えたさの余りに、せっかく親切に床の傍《わき》に坐《すわ》っていてくれた妻に、暑苦しくていけないから、もう少しそっちへ退《ど》いてくれと邪慳《じゃけん》に命令した。それでも堪《た》えられなかったので、安静に身を横《よこた》うべき医師からの注意に背《そむ》いて、仰向《あおむけ》の位地《いち》から右を下に
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