尺余りの所を流れる)水の音も、風と雨に打ち消されて全く聞えなくなった。そのうち水が出るとか出たとか云う声がどこからともなく耳に響いた。
お仙《せん》と云う下女が来て、昨夕《ゆうべ》桂川《かつらがわ》の水が増したので門の前の小家《こいえ》ではおおかたの荷を拵《こしら》えて、預けに来たという話をした。ついでにどことかでは家がまるで流されてしまって、そうしてその家の宝物がどことかから掘り出されたと云う話もした。この下女は伊東の生れで、浜辺か畑中に立って人を呼ぶような大きな声を出す癖のあるすこぶる殺風景な女であったが、雨に鎖《とざ》された山の中の宿屋で、こういう昔の物語めいた、嘘《うそ》か真《まこと》か分らないことを聞かされたときは、御伽噺《おとぎばなし》でも読んだ子供の時のような気がして、何となく古めかしい香《におい》に包まれた。その上家が流されたのがどこで、宝物を掘出したのがどこか、まるで不明なのをいっこう構わずに、それが当然であるごとくに話して行く様子が、いかにも自分の今いる温泉《ゆ》の宿を、浮世から遠くへ離隔《りかく》して、どんな便《たよ》りも噂《うわさ》のほかには這入《はい》ってこ
前へ
次へ
全144ページ中45ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング