られない山里に変化してしまったところに一種の面白味があった。
 とかくするうちにこの楽《たのし》い空想が、不便な事実となって現れ始めた。東京から来る郵便も新聞もことごとく後《おく》れ出した。たまたま着くものは墨がにじむほどびしょびしょに濡《ぬ》れていた。湿った頁《ページ》を破けないように開けて見て、始めて都には今|洪水《こうずい》が出盛《でさか》っているという報道を、鮮《あざ》やかな活字の上にまのあたり見たのは、何日《いつか》の事であったか、今たしかには覚えていないけれども、不安な未来を眼先に控《ひか》えて、その日その日の出来栄《できばえ》を案じながら病む身には、けっして嬉《うれ》しい便りではなかった。夜中に胃の痛みで自然と眼が覚《さ》めて、身体《からだ》の置所がないほど苦《くるし》い時には、東京と自分とを繋《つな》ぐ交通の縁が当分切れたその頃の状態を、多少心細いものに観じない訳に行かなかった。余の病気は帰るには余り劇《はげ》し過ぎた。そうして東京の方から余のいる所まで来るには、道路があまり打壊《うちこわ》れ過ぎた。のみならず東京その物がすでに水に浸《つか》っていた。余はほとんど崖《が
前へ 次へ
全144ページ中46ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング