ない菊屋の別館からも、容易に余の宿までは来る事ができない様子であった。すべてを片づけてから、夜の十時過になって、始めて蚊※[#「巾+厨」、第4水準2−8−91]《かや》の外まで来て、一言《ひとこと》見舞を云うのが常であった。
 そういう夜《よ》の事であったか、または昼の話であったか今は忘れたが、ある時いつものように顔を合わせると、東洋城が突然、殿下からあなたに何か講話をして貰いたいという御注文があったと云い出した。この思いがけない御所望《ごしょもう》を耳にした余は少からず驚いた。けれども自分でさえ聞かずにすめば、聞かずにいたいような不愉快な声を出して、殿下に御話などをする勇気はとても出なかった。その上|羽織《はおり》も袴《はかま》も持ち合せなかった。そうして余のごとき位階のないものが、妄《みだ》りに貴《たっと》い殿下の前に出てしかるべきであるかないかそれが第一分らなかった。実際は東洋城も独断で先例のない事をあえてするのを憚《はばか》って、確《しか》とした御受はしなかったのだそうである。
 余の苦痛が咽喉から胃に移る間もなく、東洋城は故郷《ふるさと》にある母の病《やまい》を見舞うべく、去
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