間らしい複雑な命を有して生きてはいなかった。苦痛のほかは何事をも容《い》れ得《え》ぬほどに烈《はげ》しく活動する胸を懐《いだ》いて朝夕《あさゆう》悩んでいたのである。四十年来の経験を刻んでなお余りあると見えた余の頭脳は、ただこの截然《せつぜん》たる一苦痛を秒ごとに深く印《いん》し来《く》るばかりを能事とするように思われた。したがって余の意識の内容はただ一色《ひといろ》の悶《もだえ》に塗抹《とまつ》されて、臍上方《さいじょうほう》三寸《さんずん》の辺《あたり》を日夜にうねうね行きつ戻りつするのみであった。余は明け暮れ自分の身体《からだ》の中《うち》で、この部分だけを早く切り取って犬に投げてやりたい気がした。それでなければこの恐ろしい単調な意識を、一刻も早くどこへか打ちやってしまいたい気がした。またできるならば、このまま睡魔に冒《おか》されて、前後も知らず一週間ほど寝込んで、しかる後|鷹揚《おうよう》な心持をゆたかに抱いて、爽《さわや》かな秋の日の光りに、両の眼を颯《さっ》と開《あ》けたかった。少くとも汽車に揺られもせず車に乗せられもせず、すうと東京へ帰って、胃腸病院の一室に這入《はい》っ
前へ 次へ
全144ページ中39ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング