んページ》ばかりを埋《うず》めている。
 その時の余は印気《インキ》の切れた万年筆《まんねんふで》の端を撮《つま》んで、ペン先へ墨の通うように一二度|揮《ふ》るのがすこぶる苦痛であった。実際健康な人が片手で樫《かし》の六尺棒を振り廻すよりも辛《つら》いくらいであった。それほど衰弱の劇《はげ》しい時にですら、わざわざとこんな道経《どうきょう》めいた文句を写す余裕が心にあったのは、今から考えても真《まこと》に愉快である。子供の時|聖堂《せいどう》の図書館へ通って、徂徠《そらい》の※[#「くさかんむり/(言+爰)」、第3水準1−91−40]園十筆《けんえんじっぴつ》をむやみに写し取った昔を、生涯《しょうがい》にただ一度繰り返し得たような心持が起って来る。昔の余の所作《しょさ》が単に写すという以外には全く無意味であったごとく、病後の余の所作もまたほとんど同様に無意味である。そうしてその無意味なところに、余は一種の価値を見出して喜んでいる。長生《ながいき》の工夫《くふう》のための列仙伝が、長生もしかねまじきほど悠長《ゆうちょう》な心の下《もと》に、病後の余からかく気楽に取扱われたのは、余に取って
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