さぼ》り得《う》る今の身の嬉しさが、この五十六字に形を変じたのである。
 もっとも趣《おもむき》から云えばまことに旧《ふる》い趣である。何の奇もなく、何の新もないと云ってもよい。実際ゴルキーでも、アンドレーフでも、イブセンでもショウでもない。その代りこの趣は彼ら作家のいまだかつて知らざる興味に属している。また彼らのけっして与《あず》からざる境地に存している。現今《げんこん》の吾《われ》らが苦しい実生活に取り巻かれるごとく、現今の吾等が苦しい文学に取りつかれるのも、やむをえざる悲しき事実ではあるが、いわゆる「現代的気風」に煽《あお》られて、三百六十五日の間、傍目《わきめ》もふらず、しかく人世を観《かん》じたら、人世は定めし窮屈でかつ殺風景なものだろう。たまにはこんな古風の趣がかえって一段の新意《しんい》を吾らの内面生活上に放射するかも知れない。余は病《やまい》に因《よ》ってこの陳腐《ちんぷ》な幸福と爛熟《らんじゅく》な寛裕《くつろぎ》を得て、初めて洋行から帰って平凡な米の飯に向った時のような心持がした。
「思い出す事など」は忘れるから思い出すのである。ようやく生き残って東京に帰った余は、
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