まえば死ぬと云う事は何でもないものだと云って、気の毒なほどおとなしい往生を遂げた。向うの外《はず》れにいた潰瘍患者《かいようかんじゃ》の高い咳嗽《せき》が日《ひ》ごとに薄らいで行くので、大方落ちついたのだろうと思って町井さんに尋ねて見ると、衰弱の結果いつの間にか死んでいた。そうかと思うと、癌《がん》で見込のない病人の癖に、から景気をつけて、回診の時に医師の顔を見るや否や、すぐ起き直って尻《しり》を捲《まく》るというのがあった。附添の女房を蹴《け》たり打《ぶ》ったりするので、女房が洗面所へ来て泣いているのを、看護婦が見兼《みかね》て慰めていましたと町井さんが話した事も覚えている。ある食道狭窄《しょくどうきょうさく》の患者は病院には這入《はい》っているようなものの迷いに迷い抜いて、灸点師《きゅうてんし》を連れて来て灸を据《す》えたり、海草《かいそう》を採《と》って来て煎《せん》じて飲んだりして、ひたすら不治の癌症《がんしょう》を癒《なお》そうとしていた。……
余はこれらの人と、一つ屋根の下に寝て、一つ賄《まかない》の給仕を受けて、同じく一つ春を迎えたのである。退院後一カ月|余《よ》の今日
前へ
次へ
全144ページ中143ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング