》が明らかに綴《つづ》られて見える。それにもかかわらず、感に堪《た》えぬ趣《おもむき》は少しも胸を刺さずに、四十四年の春は自《おの》ずから南向の縁から明け放れた。そうして町井さんの予言の通り形《かた》ばかりとは云いながら、小《ち》さい一切《ひときれ》の餅《もち》が元日らしく病人の眸《ひとみ》に映じた。余はこの一椀の雑煮に自家頭上を照らすある意義を認めながら、しかも何等の詩味をも感ぜずに、小さな餅の片《きれ》を平凡にかつ一口に、ぐいと食ってしまった。
二月の末になって、病室前の梅がちらほら咲き出す頃、余は医師の許《ゆるし》を得て、再び広い世界の人となった。ふり返って見ると、入院中に、余と運命の一角《いっかく》を同じくしながら、ついに広い世界を見る機会が来ないで亡《な》くなった人は少なくない。ある北国《ほっこく》の患者は入院以後病勢がしだいに募《つの》るので、附添《つきそい》の息子《むすこ》が心配して、大晦日《おおみそか》の夜《よ》になって、無理に郷里に連れて帰ったら、汽車がまだ先へ着かないうちに途中で死んでしまった。一間《ひとま》置いて隣りの人は自分で死期を自覚して、諦《あき》らめてし
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