に着いたりする折は、もうここが我家《わがいえ》だと云う気分に心を任《まか》して少しも怪しまなかった。それで歳は暮れても春は逼《せま》っても別に感慨と云うほどのものは浮ばなかった。余はそれほど長く病院にいて、それほど親しく患者の生活に根をおろしたからである。
いよいよ大晦日《おおみそか》が来た時、余は小《ち》さい松を二本買って、それを自分の病室の入口に立てようかと思った。しかし松を支えるために釘《くぎ》を打ち込んで美くしい柱に創《きず》をつけるのも悪いと思ってやめにした。看護婦が表へ出て梅でも買って参りましょうと云うから買って貰う事にした。
この看護婦は修善寺《しゅぜんじ》以来余が病院を出るまで半年《はんねん》の間|始終《しじゅう》余の傍《そば》に附き切りに附いていた女である。余はことさらに彼の本名を呼んで町井石子嬢《まちいいしこじょう》町井石子嬢と云っていた。時々は間違えて苗字《みょうじ》と名前を顛倒《てんどう》して、石井町子嬢とも呼んだ。すると看護婦は首を傾《かし》げながらそう改めた方が好いようでございますねと云った。しまいには遠慮がなくなって、とうとう鼬《いたち》と云う渾名《あ
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