いと念ずる自分がかなり馬鹿気て見えた。したがって傍《はた》のものに自分はいつ帰れるかと問《と》い糺《ただ》した事もなかった。同時に秋は幾度の昼夜を巻いて、わが心の前を過ぎた。空はしだいに高くかつ蒼《あお》くわが上を掩《おお》い始めた。
もう動かしても大事なかろうと云う頃になって、東京から別に二人の医者を迎えてその意見を確めたら、今二週間の後《のち》にと云う挨拶《あいさつ》であった。挨拶があった翌日《あくるひ》から余は自分の寝ている地と、寝ている室《へや》を見捨るのが急に惜しくなった。約束の二週間がなるべくゆっくり廻転するようにと冀《ねが》った。かつて英国にいた頃、精一杯《せいいっぱい》英国を悪《にく》んだ事がある。それはハイネが英国を悪んだごとく因業《いんごう》に英国を悪んだのである。けれども立つ間際《まぎわ》になって、知らぬ人間の渦《うず》を巻いて流れている倫敦《ロンドン》の海を見渡したら、彼らを包む鳶色《とびいろ》の空気の奥に、余の呼吸に適する一種の瓦斯《ガス》が含まれているような気がし出した。余は空を仰いで町の真中《まなか》に佇《たた》ずんだ。二週間の後この地を去るべき今の余も
前へ
次へ
全144ページ中135ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング