と居宅の持主たるべき資格をまた奇麗《きれい》に失ってしまった。傍《はた》のものは若くなった若くなったと云ってしきりに囃《はや》し立てた。独《ひと》り妻だけはおやすっかり剃《す》っておしまいになったんですかと云って、少し残り惜しそうな顔をした。妻は夫の病気が本復した上にも、なお地面と居宅が欲しかったのである。余といえども、髯を落さなければ地面と居宅がきっと手に入《い》ると保証されるならば、あの顋はそのままに保存しておいたはずである。
 その後《ご》髯は始終剃った。朝早く床の上に起き直って、向うの三階の屋根と吾室《わがへや》の障子《しょうじ》の間にわずかばかり見える山の頂《いただき》を眺めるたびに、わが頬の潔《いさぎ》よく剃り落してある滑《なめ》らかさを撫《な》で廻しては嬉《うれ》しがった。地面と居宅は当分断念したか、または老後の楽しみにあとあとまで取っておくつもりだったと見える。
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客夢回時一鳥鳴[#「客夢回時一鳥鳴」に白丸傍点]。 夜来山雨暁来晴[#「夜来山雨暁来晴」に白丸傍点]。
孤峯頂上孤松色[#「孤峯頂上孤松色」に白丸傍点]。 早映紅暾欝々明[#「早映紅暾欝
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